211回 ウィーン少年合唱団(2026.6.30)

大越 章子



画・松本 令子

    五十年ぶりのハーモニー
    ウィーンの風が吹き抜ける

 ウィーン少年合唱団

 5月の連休後の間もなくの日曜日に、南相馬市民文化会館でウィーン少年合唱団の演奏会を聴いた。その2カ月前、ギタリストの村治佳織、奏一姉弟のデュオ・コンサートに訪れた際、ロビーにウィーン少年合唱団のポスターが張られていて、コンサート終了後に窓口でチケットを購入した。
 ウィーン少年合唱団の演奏会を聴いたのは2度目になる。1度目は小学3年生の時、平市民会館で従姉妹と2人、祖母におねだりしてS席3000円のチケットを買ってもらった。50年前の小学生の感覚で3000円は高額だったが、演奏会の日が迫るなか「どうしても聴きたい」と従姉妹とふたりで話すと、祖母は「行ってらっしゃい」とお金を出してくれた。
 今年2月に亡くなった伯父が、同居していたその祖母を「うちのワンダフルおばあちゃん」と言っていた。厳しい反面、楽しむことを心得ていて、子どもにもいいものにふれさせた。ウィーン少年合唱団の演奏会は自分たちの意思で、それも子どもだけで初めて聴きに行き、強く印象に残っている。そして必ず祖母を思い出す。
 ウィーン少年合唱団の創立は1498年(日本では戦国時代初期)、ハプスグルク家出身の皇帝マクシミリアン1世が宮廷礼拝堂で歌う聖歌隊の6人の少年を集め、結成したことに始まる。歴代のハプスブルク家出身の皇帝は音楽を愛し、数百年にわたって宮廷礼拝堂の少年聖歌隊や音楽家を支え続けたが、第1次世界大戦での敗北によってハプスブルク家が崩壊し、解散せざるを得なくなった。
 最後の宮廷楽長だったヨーゼフ・シュニット神父がこれを惜しみ、私財を投げうって民間の少年合唱団「ウィーン少年合唱団」を創設した。1924年、オーディションで合格した少年たちによる活動が始まり、制服も宮廷幼年学校の軍服からセーラー服に一新された。教会音楽だけだったレパートリーも民謡や歌曲など多くの人々が好むものまで広げ、2年後の1926年から演奏会のツアーを始めた。
 キャッチフレーズのように言われる「天使の歌声」は、トスカニーニが評した言葉という。いま、10歳から14歳の100人ほどの男の子が、ウィーンのアウガルテン宮殿で暮らしながら、日々、歌のレッスンに励んでいる。ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナーとウィーン少年合唱団にゆかりのある作曲家の名前がついた4つのグループにわかれて、世界中で演奏会を開いている。

 今年の日本ツアーにはブルックナーグループが来日。南相馬市民文化会館は31公演のなかの5番目だった。ベートーヴェンの第九の「歓喜の歌」で始まり、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」やヴェルナーの「野バラ」などのあと、シューベルトの「魔王」をアカペラで歌った。ピアノ伴奏で歌われることが多い曲だが、父と息子、魔王を歌い分けることはもちろん、馬の疾走や緊張感もすべて声だけで、ボイスパーカッションの技法も駆使して表現した。
 時代なのか、それともカペルマイスター(合唱団の指揮者・音楽監督)の影響によるものなのか、あるいは団員が多国籍なのもあるのか、ウィーン少年合唱団のイメージでもあった伝統的な厳格さは消え、自由で多様性に富み、統一された美というより個々の表現が重んじられているように思える。
 プログラムも1980年代半ばに流行ったモーツァルトの生涯を歌ったラップ調の「ロック・ミー・アマデウス」や、ドイツのバンド・アルファヴィルの「フォーエバー・ヤング」などが含まれていた。それでもやっぱり、ヨハン・シュトラウス2世やヨーゼフ・シュトラウスの曲を得意とし、少年たちはリラックスして歌い、ハーモニーも自然で余裕がある。
 アンコールの1曲は「エーデルワイス」だった。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でドイツに併合された祖国オーストリアを離れる前のステージで、トラップ大佐がアルプスに咲くエーデルワイスに託し、祖国への愛や平和を祈る思いをやさしく歌った。ホールにウィーンの風が吹き抜けた。

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