214回 『注文の多い料理店』のはなし(2026.10.15)

大越 章子



画・松本 令子

    ほんとうのしあわせを問いかけている

 『注文の多い料理店』のはなし

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました――。

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』の「序」を読む大勢の声が、いわき市暮らしの伝承郷のロビーに広がった。10月初めに開かれたいわき賢治の会の童話朗読会で、居合わせた人たち全員で520字ほどの文章を読んだ。その声に包まれていると、すっとそのまま賢治の世界にさまよい込み、林や野原、虹や月明りからもらってきたというおはなしを旅している気持ちになる。
 『注文の多い料理店』は1924年12月に出版された。タイトルの前にイーハトヴ童話とついていて、序のほかに「どんぐりと山猫」や「狼森と笊森、盗森」など9篇の物語が収録されている。発行者は盛岡高等農林学校で賢治の1年後輩だった近森善一、発行所は近森が友人の及川四郎と共同で営んでいた杜稜出版部と東京光原社の連名になっている。
 近森たちは1923年、東北農業薬剤研究所という名で農作物の害虫駆除剤の製造販売を始め、宣伝普及のためのパンフレット「病虫害駆除予防便覧」や農学校用の教科書を杜稜出版部で発行していた。また光原社は賢治が提案した出版社名だった。賢治を訪ねた際、近森は大量の童話の原稿を見せられ、それが童話集出版のきっかけになった。
 ところが近森は1924年の春、久しぶりに故郷の高知県富家村(現在の香南市)に帰り、そこで選挙騒動に巻き込まれて収監され、翌年、村長選に出馬して村長になってしまった。そのため及川が苦労して費用を工面し、ようやく童話集(定価は1円60銭、1000部発行)の出版にこぎつけたが売れ行きはさんざんで、みかねた賢治は父から300円を借りて、200部買い取ったという。
 窮地に立たされた及川が目を向けたのは、農業教科書の販売に歩く時に手土産にしていた南部鉄瓶だった。名工を迎えて南部鉄瓶の製造と販売を始め、鉄瓶のさび止めに使っていた黒漆から漆器にも携わった。そのころの相談相手の1人だった彫刻家の吉川保正に民藝運動の提唱者の柳宗悦を紹介され、及川の光原社は東北の民芸の調査に訪れた柳や陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎、工芸家の芹沢圭介などのサロンにもなった。
 いま、光原社は国内外のこだわりの民芸品や工芸品を扱っている。出版はとうにやめてしまったが、中庭に「宮澤賢治 イーハトヴ童話 註文の多い料理店出版の地」という碑や、『注文の多い料理店』に収録されている「烏の北斗七星」の山烏との戦闘を終えた烏の少佐の独白の言葉が刻まれた碑が立っている。

 北上川に架かる旭橋から岩手山を眺めるのが好きで、盛岡に行くとしばしば旭橋でたたずむ。写真を撮ったり、橋の欄干に岩手山の絵入りで表示されている啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」を口ずさんでみたり、やわらかな風と戯れたりもする。賢治は盛岡中学の2年生の時に初めて岩手山に登り、その後も植物採集や地質調査などで30回以上も登山している。
 旭橋を渡ってすぐの角を左に曲がると材木町通りで、採石場に腰を下ろす賢治やチェロなどのモニュメントが並び、なかほどに光原社がある。『注文の多い料理店』は生前に出版された唯一の賢治の童話集。その序は時々、声に出して読みたくなる。
 賢治が書いた数々のおはなしは、それぞれに、ほんとうのしあわせを問いかけている。

そのほかの過去の記事はこちらで見られます。