446号 忖度の底流(2021.9.30)

画・黒田 征太郎

 

ジャーナリズムとは
個が立脚して天下に論を吐くことを指す。

(デイヴィッド・ハルバースタム)

 忖度の底流

 駆け出し記者のころ、よく「密着はいいけれども癒着してはだめだ。記者の魂を売らないように」と言われた。
 より詳しい情報を得ようとすると、頻繁に会って心を通わさなければならない。そうした取材活動を続けていると、自分しか知らない情報をいくつか持ち、優越感を感じるようになる。しかし仲良くなればなるほど情が生まれ、記事を書くことに逡巡することが増える。そこで「書かぬ大記者」を気取って相手に貸しをつくるか、「知っていて記事にしないのは読者への裏切り」という記者魂を優先するかが激しくぶつかることになる。そういう葛藤が何回かあった。

 前号の「日々の本棚」で紹介した『言論統制というビジネス』の著者、里見脩さんが「週刊東洋経済」(9月25日号)でインタビューを受けている。そのなかで、時事通信社の政治部記者を辞めるきっかけになったのは、アメリカのジャーナリスト・ハルバースタムを取材したことだった、と打ち明けている。
 ハルバースタムは里見さんに「ジャーナリズムとは個が立脚して天下に論を吐くことを指す。記者は書くことの1点に尽きる」と言い、新聞社の看板を背負って政治に関与し続ける記者たちを、「編集部門に勤務するサラリーマン」「政治ブローカー」と揶揄した。
 もう1つ。里見さんは、ユーゴスラビア紛争で従軍記者としてセルビア側から入り、血の生臭さ、ガソリンや火薬の入り交じった臭いを体験した。現地を取材して米欧による「セルビア=悪」という構図に疑問を持ち、思いのまま記事を送ったが、本社はそれに見向きもせず、外電を使った。それが大いなる違和感になった。そうした経験が、政治・行政とメディアがもたれ合うことになった裏面史へと向かわせることになる。
 いまも、権力側とメディアの持ちつ持たれつの関係は当然のこととして底流に流れ、それがとみに強まっているように感じる。政治はメディアに情報を流して対抗勢力や政敵を追い落とし、体制に批判的なジャーナリストは上層部が政治に忖度して表舞台から外す。行政内の審議会委員には必ずメディア代表が選ばれ、口封じに遭う。
 そうした現状を踏まえ里見さんは「ジャーナリストにとって大切なのは自己の信念を保持し、百年後を見据える根性ではないか」と言う。しっかりと肝に銘じたい。

(安竜 昌弘)

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