481号 吉原公一郎さん(2023.3.15)

画・黒田 征太郎

 

     弱者たちとともにペン一本で
                                             政治権力や体制に食い下がり続けた

 吉原公一郎さん

 

 いわき市出身のルポルタージュ作家、吉原公一郎さんの私的な追悼集を少しずつ読んでいる。煉瓦色の表紙に明朝体の小さな文字で『吉原公一郎 表白』とだけ刻まれている。約600ページあり、その装丁は地味ではあるが、シンプルで美しい。

 吉原さんの本名は吉原泛。1928年(昭和3)に波汐家の三男として生まれ、旧制磐城中在学中に終戦を迎えた。いったんは地元の郵便局に勤め、東京転勤の辞令を受けて上京したが、ほどなく退社して早稲田大学文学部仏文科に入学した。しかし、レッドパージに反対する学生たちが蜂起した早稲田大学事件に関わって拘置され、中退の憂き目に遭う。そうした経験を生かして小説や取材記事を書くようになり、編集者や記者として社会の闇に切り込む原稿を何本も残した。
 テーマは防衛、原発、憲法九条、沖縄、航空機事故などで、晩年に取り組んでいたのは戦中の言論弾圧事件として知られる、横浜事件をテーマにした戯曲。追悼集には、 最期まで心血を注いだこの未発表の遺作「ふたたびの横浜事件」が入っている。吉原さんは2021年(令和3)8月6日、93歳で亡くなった。

 軍国教育を受け、日立多賀で軍需品づくりを手伝わされた吉原さんは早稲田大学事件に関わった際に、当時の警察予備隊(現在の機動隊)に「貴様、それでも日本人か!」と罵倒され、「日本人とは一体何だろう」と考えるようになる。そして「警察は反国民的なイヌではないか」と結論づけ、国家や権力を懐疑的に見る、という座標軸がつくられていった。その根っこにあったのは明治時代の初代司法卿・江藤新平がめざしていた「人民ノ権利ノ保護」。ところがいつからか司法は「国権ノ保護」になり、冤罪や国策裁判が頻発していく。吉原さんはそうした理不尽なものに怒り、権力の壁をペン一本でこじ開ける孤高のジャーナリストとしての道を、進んでいった。
 吉原さんは、その魂に火を点すように本質を追い始める。スリーマイル島での原発事故のあと、その危険性についての小説を連載していたら、東電から待ったがかかった。そのとき「『東電の圧力で連載を中止せざるを得なくなった』と最終回に書いていいのなら、ここできれいさっぱりやめてもいい」と条件をつける。弱小出版社を気遣いながらも自分の筋を通したのだった。
 そんな吉原さんだから、2011年3月11日の東日本大震災と原発事故後は福島県の海岸線を北上、汚染地帯の飯舘村も訪ねて住民たちから話を聞いた。さらに原発関係の裁判を注視し、事あるごとに報告し続けた。その姿勢は決してぶれることはなかった。  

                                                                                                                                                                                                            (安竜 昌弘)

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