

家の歴史は地区の歴史であり
まちの歴史きちんと残したい
| 記憶を記録にする |
必要があって「原戸籍」をとった。四代前まで、さかのぼることができる。一緒に暮らしていたのはせいぜい2代前の祖父母までなので、曾祖父母になると、遺影でしか知らない。原戸籍には、嫁いできた女性がだれの子どもかまで書かれていて、興味深い。父のきょうだいは男2人、女2人の4人とばかり思っていたが、7人いたことがわかった。屋号の「甚兵衛」は4代前の祖先の名前だった。
以前、近くに住んでいて古文書の解読に詳しい先輩から「折戸のことが書かれてある古文書を現代文にした。興味があるならコピーをとって渡すけど、どうだい?」と言われた。「折戸」とは、わが家がある地名で、この集落は過疎化がどんどん進んでいる。「願ってもないです。教えてください」と二軒先の家を訪ね、説明を受けた。
古文書は万延年間(1860―1861)だから江戸時代末期のもので、徳川家茂の時代。そのころの折戸地区は、湯長谷藩領だった。書いたのは「吉田茂八郎」という人物で、28軒についての簡単な説明が記されている。海でつながっているせいか、ざっと見ると房総(千葉県)や伊豆(静岡県)、加賀(石川県)、那珂湊、川尻(茨城県)の地名や「女聟」「水夫渡世」という文字も目立つ。つまり、折戸の住人が娘婿に他の土地の船乗りを迎えた、ということらしい。
さて、当時のわが家の当主は「甚兵衛」で、養子。その祖父は近くの彦兵衛から出ていて、妻は越後(新潟)から来たが子どもがなかった。続いて「二代之隠居」と「三春之者」という記述がある。当主の甚兵衛が三春出身ということなのだろうか。わからない。さらにその娘は、永崎で農家を営む九右衛門の二男・大吉を婿に取り、甚蔵と改名した、と書かれていた。
「いまから160年以上も前のことを知ってどうするつもりだ」と言われてしまえば、身も蓋もないのだが、わずか28軒、しかも2、3行の情報から、当時の折戸の姿が薄ぼんやりと見えてくる。今は亡き叔父によると、わたしの曾祖母は平の丸山家から嫁ぎ、その前の代は越後にいた、というから、古文書にある越後や三春という地名に親しみを覚える。そして「伯母が生きているうちにもっと聞いておけば…」と悔いが残る。
家の歴史は地区の歴史であり、まちの歴史。郡山市の歴史資料館には、そうした種々雑多な資料が大切に収集・保管されている。郡山市史も新しい事実が出てくれば、そのつど書き換えを行っている。でも、いわきはそれが弱い。記憶を記録にし、歴史にしていく必要性を感じている。 (安竜 昌弘)
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