052回 コクリコ坂(2011.9.15)

大越 章子

 

画・松本 令子

古いものが持つ時代のいい記憶

コクリコ坂

 大丸谷坂、汐汲坂、代官坂、谷戸坂…。横浜の山手は坂のまちで、元町通 りからあみだくじのように上り坂がのびている。かつて居留外国人たちが「ブラフ(切り立った岬)」と呼んでいたところ。坂を上りきった山手本通 りは洋館の散歩道で、たまに歩きたくなる。
 居留地時代の洋館は、関東大震災でほとんどない。あるのは大正の終わりから昭和の初めに建てられたもので移築、復元された。それでも日ごろ、ハロウィンやクリスマスといった季節行事を大切にし、コンサートや展覧会などを開き、もともとそこにあったみたいに異国情緒と歴史を漂わせている。
 6月には石川町駅から一番近い大谷丸坂を上り、イタリア山庭園のブラフ18番館と外交官の家に寄った。ちょうど7つの洋館でバラの時期恒例のフェスタが行われていて、アーティストたちが建物内を花で飾り、食卓やリビングのテーブルをコーディネートし、庭でティーパーティも開かれていた。
  イタリア山庭園から山手本通りを港の見える丘公園に向かい、招かれたお客さま気分でべーリック・ホール、エリスマン邸、イギリス館などほかの洋館も訪ねた。大胆で繊細なフラワーアレンジ、いいにおいがしてきそうな食卓を眺めながら建物内を歩き回り、そこで営まれた人々の日々の暮らしを想像した。
  たぶん、いま映画館で上映されているスタジオジブリの最新作「コクリコ坂から」の主人公の高校2年生の海のように、人々は清潔にシンプルで、規則正しく、精神的に豊かな暮らしをしていただろう。
  映画「コクリコ坂から」は、東京オリンピックを翌年に控えた1963年の横浜が舞台になっている。海が暮らすコクリコ荘は、母方の祖父が医院を営んでいた明治時代の洋館(室内は和風)で、港を見おろす丘の上にある。
  コクリコとは、フランス語でヒナゲシのこと。海は毎朝、コクリコの咲く庭に出て、「安全な航海を祈る」を意味する信号旗を揚げる。船乗りだった父が迷子にならないようにと、幼いころからしていた習慣で、朝鮮戦争の際に乗っていた船が機雷に遭い、行方不明になったままの父を思ってやめられずにいる。
  ものがたりと知っていても、「コクリコ坂は山手のどの坂だろう」と気になる。コクリコ荘は海からそう遠くない。それなら、コクリコ坂は港の見える丘公園そばの谷戸坂かもしれないなどと、頭を巡らす。
  調べてみると、コクリコ荘は神奈川近代文学館あたりの設定らしい。港の見える丘公園の南東側で、イギリス館の裏になる。するとやはり、コクリコ坂は谷戸坂のイメージだろう。映画には山下公園と共にジャックとキング、クィーンの愛称で親しまれている横浜のシンボル的な大正時代の建物も登場する。
  海が通う港南学園にある、文化部の部室が集まる建物「カルチェラタン(パリの学生街の地名)」も明治時代に建てられた洋館で、その取り壊しが計画され、文化部の男子生徒を中心に反対運動が起きる。存続を話し合う討論会を開き、理事長に直談判に出かける。「古いものを壊すことは、過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか」。取り壊しに反対の男子生徒は訴える。
  東京オリンピックを転換期にいまの日本がある、とよく言われる。港南学園のできごとも象徴の1つだろう。50年前の横浜にちょっとタイムスリップしてみたくなる。

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