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坂下門外の変で水戸浪士に襲われた安藤信正の主な傷は背中の2カ所だった。右頬にも切り傷があるように思われたが、現場から移動途中に血がこびりついたものだった。背中の第十胸椎のすぐ上の傷は皮膚をかすった程度だったが、第二腰椎の左側の逆三角形の傷は傷口が開き、幅広いところで長さ1寸(約3cm)、深さも1寸あり、血が滲み出ていた。
役宅に帰った信正の元に、将軍家侍医奥医師の戸塚静海(せい かい)(外科)と林洞海(どう かい)(内科医)が来診し「全身状態に異常はないが、刀傷は深い刺し傷で筋肉層まで達していて、治るまでに長くかかる恐れがあるので、すぐに縫合手術が必要」と説明した。
信正の寝所がそのまま手術室になった。消毒はすべて温めた焼酎。日暮れの早い1月半ば、室内は灯火を増やし、静海の手元や傷口を常に明るくするために、江戸詰藩医の松村有甫(ゆう ほ)と斉藤道渓(どう けい)が左右から龕灯(がん とう)で照らした。静海はまず背中の2つの傷を消毒した。洞海は黙って脈を測った。
間もなく静海は助手が差し出した糸付きの鋭鉤針を右手に持ち、左手の鑷子(ピンセット)で傷をつかんだ。半円周を描いた針を皮膚、皮下組織、筋膜とくぐらせて尖端を出し、反対側に向かわせ、針から糸をすばやく抜いて結んだ。さらに隣に同じような縫合をし、信正の背中の大きく口を開けたような傷は、きれいに一線に合わせられた。腫れを防ぐために傷の両端に小さな縫合を2針加え、終了した。
静海の手術を間近で見ていた有甫は「たいしたことをなされた。まるで神業だ。わしもあのような洋方(西洋医術)をなんとかして学びたいものだ」と、家族に話した。そして信正が抜糸を済ませ、そのうち入浴ができるようになり、食欲も出てきたころ「せめて半年ほど、静海先生に西洋流の外科医術を学びたいのですが」と願い出た。信正は快諾した。
有甫は文政6年(1823)、江戸に生まれた。初代の松村有益は安藤家の藩医として六代目藩主の信成に仕えた。有益には男の子がいなかったので、隣家の譜代大名・菅沼伊賀守の家臣の大高友次郎の子の太一郎を後継者にして、2代目有益とした。その子どもを3代目有益、3代目の子どもの有伯が年少でなくなったため、有甫は長女の千代と結婚して、松村家に入って継いだ。松村家は代々、漢方医だった。
信正の回復を見届け、あらためて江戸詰上席家老に静海の治療所への見学と研修の許可を得た有甫は文久2年(1862)、八丁堀地蔵橋際(いまの中央区茅場町3丁目付近)にあった戸塚静海治療所に通
い始めた。杉田玄白が『解体新書』を翻訳してから、90年ほどが経っていた。
それから間もなく、信正は老中職を罷免され、4カ月後には隠居謹慎を命じられ、有甫も「しばらくお暇をいただきたい」と静海に伝えた。まだまだ治療所で学びたかったのだろう。有甫は持っていた2冊の西洋医学書をいつも側に置き、読んでいた。6年後の慶応4年(1868)、戊辰戦争が起きて、7月13日に磐城平城は落城した。有甫は療養のため上平窪村(いまのいわき市平上平窪)の浄国寺に滞在していて亡くなった。
「これからの医療は病院で洋方医術を行うこと」。息子の高知(安政元年生まれ)は有甫からよく聞かされていた。明治3年(1870)、高知は平假病院兼平藩医学校で洋方医学を学び、3年後、平一町目の磐前県病院に勤務した。
明治16年(1883)、県病院は廃止され、病院の必要性を感じた高知は、その年の10月、私立長春館病院を平二町目に開設した。そして3年後、松村総合病院と改称し、いまに至る。
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