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かつて館があったと伝えられている高台からは、広々とした穀倉地帯がよく見渡せた。そこに、蔡國強といわきの仲間たちとの象徴ともいえる「廻光〜龍骨」が置かれた。蔡がいわきと関わりを持つようになって20年。廃船を利用してつくられたその作品の前に立つと、志賀忠重と藤田忠平の胸には、さまざまな感慨が去来した。
1994(平成6)年、3月6日。いわき市立美術館で蔡の個展「環太平洋より」が始まった。その展示の中心が「廻光〜龍骨」だった。廻光とは、蔡が四倉のアトリエから毎日眺めていた、太平洋の朝焼けの光(逆光)のことで、過去をよみがえらせる光をも意味していた。
その年の2月だった。蔡は、小名浜水産高校(現在のいわき海星高校)前の砂浜に埋まっていた廃船と運命的な邂逅を果
たす。北洋サケマス船に使われていた船で、エンジンや油をきれいに取り去り、木の部分だけを残して海に流されたものだった。それが海流の関係か、不思議にその砂浜に打ち上げられ、月日とともに船体は深く砂に埋もれていった。
そこは、明らかに船の墓場だった。海の男たちを乗せて北洋の荒海を航海し、サケやマスを獲り続けた船たち。それが役目を終え、砂浜で横たわっている。確認できるだけでも3隻あった。蔡は「これだ」と思った。それを志賀たちが掘り起こして、作品にした。
「廻光〜龍骨」は展覧会終了後、掘り出された砂浜が見える三崎公園(小名浜)に設置されていたが老朽化が激しく、市が手を余した。設置してから12年の歳月が経っていた。志賀たちは蔡の意向を受けて廃船を引き取り、蔡の展覧会が開かれようとしていた広島に送った。蔡はそれを「無人の花園」という作品にして新たな命を吹き込み、再びいわきに戻ってきた。
「作品というのは生きものですから、変わるのが当然なんです。社会そのものは変わっているわけですから」。蔡はそう言う。蔡にとっての物語は、船の墓場に埋まっていた廃船を見た瞬間から始まっていた。それを志賀たちが掘り起こし、バラして運んで組み立てる。いわき市立美術館から三崎公園、広島市現代美術館から、またいわきへ。そのたびにみんなで同じ作業を続けてきた。「廻光〜龍骨」は、その行為、関わりも含めての作品といえた。
4月11日のことだ。次の日から2日間、いわき万本桜プロジェクトによる記念行事が開かれることになっていた。桜も開花し、絶好のタイミングだった。蔡もやって来た。みんな準備に余念がなかった。ところがその夜、「廻光〜龍骨」が燃えるトラブルがあった。
いつものメンバーで館跡に運び上げ、組み立てたまではよかったが、溶接したときの火種がどこかに残っていたらしい。山の頂から火が上がり、井戸があった場所から水を運んで消し止めた。船首部分を焦がしてしまったとはいえ大事には至らず、蔡が指示して組み立て直した。
龍を思わせる回廊美術館をたどって高台の館跡に上がると、そこに「廻光〜龍骨」がある。それは自然と調和する、見事なたたずまいだった。しかもその付近はかつて、志賀が愛犬と一緒に山暮らしをしていた場所だった。
それぞれの脳裏に、この20年の出来事が浮かんでは消えた。蔡との出会い、無謀ともいえる地平線プロジェクトと市立美術館での個展、もう一隻の廃船による作品「いわきからの贈物」とともに世界をめぐった日々、そして震災、万本桜プロジェクト…。そのつながりや思いは、無名だった蔡が、世界的なアーティストになったいまでも、何も変わらなかった。
蔡が高台から、向こうの山を指して言った。「あそこに三重の塔を建てましょう」。いつのまにか、万本桜プロジェクトの大地は、蔡のキャンバスになっていた。志賀や藤田たちは場所の見当をつけて、杭を打った。「蔡さんと何かやると楽しい。わくわくする」。そんな思いだけでここまで来た。金はいつもあとからついてきた。そして何よりも、みんなにとってかけがえのない作品である「廻光〜龍骨」に安住の地を与えることができた。それが、うれしかった。
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