第419号

419号
2020年8月15日

 

好きだからこの道をまっすぐ歩いてきた

 JR福島駅東口の広場に、作曲家の古関裕而のモニュメントがある。生誕100年の2009年に造られ、朝8時から夜8時まで30分おきに古関メロディが流れる。福島市は古関のふるさと。駅前の目抜き通りに生家の喜多三呉服店があった。いまは生誕の地記念碑が静かにそれを伝える。
 裏通りの斜め向かいにあった魚屋は「福島行進曲」や「暁に祈る」などをともに手がけた作詞家の野村俊夫の家。古関が小学生になったころ、5歳年上のガキ大将の野村は越してしまったが、幼いころよく遊んでもらった。30kmほど南の本宮町(現在の本宮市)では「露営の歌」や「イヨマンテの夜」など古関の作品を数多くレコーディングした、歌手の伊藤久男が生まれ育った。
 小野新町(現在の小野町)で生まれ郡山市で育った、作詞家の丘灯至夫は18歳で西條八十の弟子になり、古関と出会って「長崎の雨」「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」などを一緒に作った。

 古関は生涯、5000に及ぶ曲を手がけた。早稲田大学応援歌「紺碧の空」、ラジオドラマの主題歌「とんがり帽子」や「君の名は」、映画「モスラ」の「モスラの歌」、全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」、東京五輪の「オリンピック・マーチ」など多岐にわたる。
 そのなかで敗戦から4年、昭和24年(1949)に作られた「長崎の鐘」は代表作の1つ。長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)助教授の永井隆の著書『長崎の鐘』をもとにサトウハチローが作詞し、古関が曲をつけた。永井と親交のあった精神科医の式場隆三郎の強い願いがきっかけだった。
 放射線医学の研究をしていた永井は戦時下の劣悪な医療環境のなか、結核のX線検診などをした影響で白血病の診断を受けた。2カ月後、アメリカの原爆投下で妻を亡くし、自らも大学で被爆、割れた硝子で大けがをした。しかし3日後には被爆者の救護にあたり、原爆の被害報告書もまとめた。
 『長崎の鐘』は自身の体験と、原爆が投下されたあとの長崎のまちや人々の様子が細かく記されている。「鐘」は浦上天主堂のアンジェラスの鐘。鐘楼は35m先まで飛ばされたが、鐘はほぼ無傷でがれきの下から見つかり、クリスマスに再び鳴り響き人々を励ました。
 「長崎の鐘」を作曲する際、古関は「長崎だけでなく、戦災の受難者全体に通じる歌」と感じ、打ちひしがれた人々の再起を願い、後半から長調に転じる希望の曲にした。永井からは「なぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました」と書かれた手紙と、手製の木綿糸のロザリオが送られてきた。
 古関は求められれば、できる限り依頼を受けた。戦時中、たくさんの戦時歌謡を作曲し、多くの人が「露営の歌」に見送られて出征し命をかけた。「若鷲の歌」を歌って若者たちは南方に飛び立ち、ほとんどが帰らぬ人となった。
 従軍や慰問などで現地に行って、兵隊の心情を理解して作った曲はよく聴くとただ勇ましく、士気を鼓舞するものではないが、戦後、複雑な思いにかられ胸が痛んだという。古関自身、「長崎の鐘」に救われたのだろう。
 「私は音楽をもって大上段に構えたことはない。使命感などと、そんな大それたものを振りかざしたこともない。好きだからこの道をまっすぐ歩いてきたのである」。80歳でこの世を去る10年前、自伝にそう書いている。


 特集 古関裕而と仲間たち

 作曲家の古関裕而(1909-1989)と作詞家の野村俊夫(1904-1966)、歌手の伊藤久男(1910-1983)は福島県で生まれ育ったので「福島三羽烏」とも、所属会社から「コロンビア三羽烏」とも言われ、「暁に祈る」など3人で手がけた歌もある。3人の人生をたどるとともに、同じ福島県出身の作詞家の丘灯至夫にもふれた。
 

古関 裕而のはなし

 古関の1作目のレコードは「福島行進曲」。幼なじみの野村俊夫(本名・鈴木喜八)が作詞し、古関が曲をつけた。戦中は請われるままに戦時歌謡を作り、戦後は劇作家の菊田一夫と組んで「鐘が鳴る丘」や「君の名は」などの人気作を手がけ、いつしか古関にとって菊田は最大の理解者で、創作意欲をわかせる源泉となった

伊藤 久男のはなし

 コロムビア三羽烏のひとりで、福島県の本宮出身の伊藤久男。その豊かな声量で「イヨマンテの夜」などのヒットを飛ばした。その人生と葛藤を紹介する。
 

本宮町歩き

 本宮には伊藤久ゆかりのモニュメントなどがある。生まれ育った実家や墓などを訪ね、久男の面影を求めて、まちを歩いた。

丘 灯至夫のはなし

 丘は西條八十が主宰する雑誌に詩を投稿していた。それが縁で西條の最後の弟子になり、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記者などをしながら作詞していた。昭和24年(1949)に日本コロンビアの専属作詞家になり、38年(1963)には作曲家の遠藤実とコンビを組んで作り、舟木一夫が歌う「高校三年生」が大ヒットした。

「高原列車は行く」のこと

 丘が作詞し、古関が作曲、歌手の岡本敦郎が歌った「高原列車は行く」(昭和29年発売)は磐梯山のふもとを走った沼尻軽便鉄道がモデル。体の弱かった丘は子どものころから、沼尻軽便鉄道に乗って、猪苗代の横向温泉に湯治に行っていた。

 記事

新型コロナウイルスのこと(7)

 いわき市は5月3日以降、新型コロナウイルスの感染者が確認されていなかったが、8月に入って5人の感染者が判明した(8月10日現在)。5人それぞれの経過や状況などを伝えた。


MY SONG わたしの好きな歌

イヨマンテの夜
伊藤 久男


日々の本棚

『ニューヨーク・タイムズが報じた100人の死亡記事』
河出書房新社刊 4200円+税


ギャラリー見てある記

リサ・ラーソン展
 スウェーデンの陶芸家のリサ・ラーソンさんの展覧会が8月30日まで、いわき市立美術館で開かれている。初期から近年までのリサの作品が並ぶ展示室には自由と許容性が漂っている。


追悼 粥塚伯正君を偲んで

川角 功成さん
 若いころから粥塚さんと親交が深い川角さんの、追悼詩と文。


日々のことば

 核がもたらす大きな死、人為的な死。それに対して私は「ノー」と言いたい。(林 京子)

 女学生時代に長崎で被爆しその体験を女学生の目を通して「祭りの場」(芥川受賞作)を書いた林京子。その毅然とした言葉と生き方を紹介した。

 

 連載

戸惑いと嘘(53) 内山田 康
見えない過程(1)


阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(16)ネムノキ


もりもりくん カタツムリの観察日記④ 松本 令子
薔薇の沐浴


DAY AFTER TOMORROW(210) 日比野 克彦 
コロナ渦での「赤鬼」

 

 コラム

月刊Chronicle 安竜 昌弘
斉藤哲夫のこと
沈みがちな心を 洗い流してくれる 明るく弾んだ歌声