420号 2020年8月31日 |

戦後七十五年に思うこと
池内 紀(おさむ)さんの生き方
戦後75年だという。広島で被爆した、2人の男女(市内在住)を取材した。ともに昭和14年生まれ。広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日は、小学1年生だった。それから間もなく、混乱のなかで終戦を迎え、「戦後」を生きてきた。心のなかでは、原爆症の不安に苛まれていたのだと思うのだが、そんなそぶりは見せない。屈託なく被爆者健康手帳の説明をし、「不安? 特にないよ。なるようにしかならないもの。ただ前を向いて生きてきた」とにこやかに話した。
手元に5年前の新聞記事がある。昨年8月30日に78歳で急逝した池内紀さん(ドイツ文学者)が、「私の歩んだ戦後70年」というタイトルで朝日新聞に寄稿した。その見出しには「国は信用ならない」「他人は頼りにしない」「自分で考え決断する」「平和を根づかせるのは忍耐と知恵」とある。
昭和15年生まれ。混乱のなかで戦後教育を受け、20代にウイーンにいて「プラハの春」を身近で体験した。そして55歳のときに東大教授を辞して、自由の身になる。それが戦後50年という節目で、自分だけの目印にしていたという。
「静かな反骨」を胸に秘めて自由に生きた池内さんの生活ぶりや考え方も、興味深い。同窓会が嫌いで、出たことがない。それを「同じ生年だから同時代に生きたとは限らない。それを同窓の縁でむつみ合うのは、ぬくろみの残ったトイレに腰を下ろすような不快感がある」と説明する。
テレビ、携帯電話、パソコン、車を持たず、ラジオと自転車の生活。新聞もとらず、せいぜいドイツの週刊誌「シュピーゲル」を買う程度。「時代に遅れるどころか、とっくに置いてきぼりをくっているでしょう。『ま、いいか』と思っています。先頭集団に興味はなく、息せき切って駆けくらべをするガラでもなく、長距離レースによくあるように、1周か2周遅れで走っている、あれで結構です」(『記憶の海辺』)と書き、先頭よりは2番手、中央よりは片隅を好んだ。
そうした生き方をしてきたからこそ、空気やムードを懐疑的に見て、その本質を観察し、分析した。池内さんによると、時の権力者、権力にすり寄る人々の語り口は、①主題をすりかえる②どうでもいいことにこだわる③小さな私的事実を織りこむ―こと。そうした傾向や特徴に気をつけて、と注意を促した。
225年前に世に出た哲学者カントの『永遠平和のために』を訳し、この本がEU(ヨーロッパ共同体)や国際連合を生み出す背骨の役割を果たしたこと、日本国憲法の「九条」に影響を与えたことを、積極的に知らせようとした。雲行きがあやしくなった日本を憂えてのことで、非戦や平和に対しては埋火のように、心のなかでつねに燃えていた。
「いかなるときも/口論は禁物/バカと争うと/バカを見る」―生前、批判、非難を浴び続けていたゲーテが自戒用につくったと思われる4行詩で、池内さんが紹介している。ウイットに富みながらまっすぐに、しかも決して声高ではない池内さんの言葉。没後1年が過ぎ、いまだからこそあらためて耳を傾け、向き合おうと思う。
特集 戦後75年 原子爆弾が投下された広島 |
この夏、終戦から75年を迎えた。昭和20年(1945)8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされた。いま、いわき市内で被爆者健康手帳を持っている人が11人いる。月日の流れとともに、その数は減っているという。被爆者健康手帳を持つ、徳永真弓さん(81)と鈴木昭雄さん(81)に原爆が投下された日のことなどを聞いた。
徳永 真弓さんのはなし
徳永さんは広島で生まれ、小学1年生の夏に終戦を迎えた。父は前年に戦死し、母とふたり暮らし。8月6日、母は勤労奉仕のため朝から広島の中心部に出かけた。そのあと空襲警報が鳴ったが解除されたため、いつものように鞄を背負って小学校に向かった。

鈴木 昭雄さんのはなし
いわき市平薄磯の災害公営団地に住んでいる鈴木昭雄さんは小学1年生のときに広島市内から4km離れた府中町で被爆した。学校に登校して教科書を机に入れていたときだった。「ウゥーッ」という飛行機のエンジン音、「ピカッ」という閃光、ドドドドドーンという凄まじい爆発音が襲ってきた。

記事 |
新型コロナウイルスのこと(8)
いわき市医師会長 木村 守和さんのはなし
メトロノーム
磐城高校の甲子園
2020甲子園交流試合に出場した磐城高校は、国士舘高校(東京)と対戦し、4-5と惜敗した。コロナ禍によってめまぐるしく変わる状況の中で、メディアは「よくもこれほど」とあきれるほど、磐城高校と木村監督を追いかけた。さまざまな動きや磐城高校の甲子園での戦い方を踏まえ、木村監督転任の背景と一連の動きで感じた違和感についてまとめた。

わたしの本棚
『ダウントンアビー クッキングレシピ』
アニー・グレイ 著
イギリスの人気テレビ番組の公式レシピ本。1912年から1925年までのヨークシャー伯爵クローリー家で出された料理が、文化的背景や洒脱な会話も含めて収められている。その書評的紹介。

久之浜第一小の校歌
久之浜第一小学校の校歌は昭和28年(1953)、創立80周年記念に、同窓生で歌手の霧島昇に制作を依頼して作られた。作詞は西條八十、作曲は古関裕而。その年の8月には、霧島がコロンビア楽団をひきつれ、小学校で校歌お披露目の発表会が開かれた。

連載 |
戸惑いと嘘(54) 内山田 康
見えない過程(2)
阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(17)キキョウ
地域新聞と新聞人⑯ 小野 浩
成人式のはじまり
もりもりくん カタツムリの観察日記⑤ 松本 令子
スペアミント
ぼくの天文台 余話(1)
本籍地への思い
7月21日に急逝した粥塚伯正さんが記した160回をたどりながら、その思いや周辺を「余話」として紹介する新企画。
コラム |
ストリートオルガン(154) 大越章子
2020年の夏
「あなたはどう生きてきましたか」の問い