第452号

452号
2022年1月1日
釜石市唐丹町の津波の碑と山口弥一郎(昭和36年) 磐梯町所蔵 県立博物館提供

   

私は黙々と果てしなくそれを追うた

 『九十歳の提言』(文化書房博文社)という本がある。東北の地理学、民俗学に大きな業績を残した研究者の山口弥一郎(1902—2000)が卒寿記念に出した。プロローグでは詩のような文で自身の半生をたどり、思いの丈を述べている。その第6連は次のように綴られている。

 地理学から郷土の民俗学研究、
 田中舘・柳田両師が
 遙かなる理、その追究の道を教えた
 私は黙々と果てしなくそれを追うた

 田中舘とは地理・地質学者の田中舘秀三、柳田は民俗学者の柳田國男。弥一郎は1925年(大正14)に磐城高等女学校(現在の磐城桜が丘高校)に赴任し、1940年(昭和15年)に岩手県の黒沢尻中学校(現在の黒沢尻北高校)に転任するまで、15年間、石城(現在のいわき市)で暮らした。
 この間、地理科の文部省の中等学校教員資格検定試験(通商・文検)を受けるために、地理学の調査研究を始め、炭鉱集落の研究にも取り組んだ。地理学の師の田中舘のもとで1933年(昭和8)に起きた三陸津波、翌9年の東北大凶作などの調査もした。
 炭鉱集落の研究は次第に炭鉱での人々の暮らし、そのあと炭鉱以前の農山や漁村の生活の研究に移り、民俗学の世界にも入り込んだ。民俗学の師の柳田から、石城の篤農家で民俗研究家の高木誠一を紹介され、いっしょに磐城民俗研究同志会(のちの磐城民俗研究会)を立ち上げ、石城の民俗研究の礎を築いた。
 弥一郎にとって石城は地理学と民俗学の研究のゆりかごの地で、ふたりの師と出会い、郷土研究の方法論を学び、会得した。生まれ育った会津が第一の故郷なら、基礎研究を始めた石城は第二のふるさとという。
 石城時代に始めた三陸津波の研究は24年続き、1960年(昭和35)にその研究論文で、東京文理大学(現在の筑波大学)から理学博士の学位を取得した。大学に籍を置かず、独学での研究は特異な存在でもあった。
 「弥一郎は地理学的な研究をミクロとマクロの視点でとらえ、そこに民俗学がつながっていく。津波だけでなく凶作や廃村、過疎など人々の生活の場が自然の猛威や時代の劇的な変化で変わったり、失われたりすることへの眼差しを絶えず持っていた」と、福島県立博物館の主任学芸員の内山大介さん(45)は言う。弥一郎の研究によるメッセージは普遍的で未来をも見つめ、いまを生きるわたしたちに伝えている。(敬称略)


 特集 山口弥一郎といわき

 地理学、民俗学の研究者の山口弥一郎は1925年(大正14)、数学の教師として磐城高等女学校(現在の磐城桜が丘高校)に赴任した。会津中学校(現在の会津高校)時代の担任で、当時の磐城高等女学校の校長だった桜井賢文に乞われてのことだった。弥一郎にとって石城は、地理学と民俗学の基礎研究を始めた地。弥一郎の石城での15年間をふり返る。

 生い立ち
 磐城高等女学校に赴任
 炭鉱集落の研究
 民俗学との出合い

山の神が祀られている炭鉱の抗口
磐梯町所蔵 県立博物館提供

磐城高等女学校の郷土研究部のこと
 ふるさとのよさを伝えたい

斎藤恵美子さんのはなし(磐城高女23回卒)
 学者肌で厳しく、精悍な顔立ち

日本民俗学講習会のこと
 初めて柳田國男との対面を果たす

磐城民俗研究同志会のこと
 高木誠一とめぐりあった頃の記憶
 
地域民俗調査のこと
 足元を見つめ「おしんめいさま信仰」から調査開始

柳田邸での弥一郎(右から5人目)
磐梯町所蔵 県立博物館提供
 記事

中部博さんのはなし(下)

西岡恭蔵の愛と死
 1999年に50歳の若さで自ら命を絶ってしまった恭蔵さんの後半生を「プカプカ 西岡恭蔵伝』を出版した西部さんの講演をまとめた後編。

恭蔵とKURO写真
提供:小学館  撮影:沢田節子
 連載

戸惑いと嘘(76) 内山田 康
神の死と主権の秘密(2)


阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(49)ホンダワラ


時空さんぽ 再び 〜磐城平城を訪ねて(18)
番外編 お正月

 コラム

月刊Chronicle 安竜 昌弘

消えゆく食文化
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