第512号

512号
2024年6月30日
小川町上小川の常慶寺にある白井遠平のお墓。同じ墓地に草野心平の墓もある

       あるく みる きく

 88年前に作られた平市街地の地図(キューピット印刷発行)の才槌小路に「阿部」と書かれた場所がある。石炭販売で財を成した阿部政右衛門(享年91)が大正8年(1919)にその土地を譲り受け、自宅を建てた。明治39年(1906)の平の大火事で自宅が全焼して借家を転々とし、ようやく得たわが家だった。
 阿部家の歴史をたどると、明治から大正期の実業家で政治家でもあった白井遠平や、詩人の草野心平とつながる。政右衛門の妻のコトの母が遠平の娘で、心平の父の馨も遠平の息子。コトの母と馨は異母きょうだいだった。

 6月後半の日曜日、小川町を歩いてコトの実家(草野家)を探した。その数日前に、遠平の自宅があった場所をつきとめたが、もう当時の気配は何もなかった。コトの実家も大きな屋敷や蔵など建物を壊し、土地は地区に寄付して、「草野家屋敷跡地」というプレートと生い茂った木々、屋敷神の祠が残っているだけだった。
 帰り道、遠平の名もあるという草野家の系図を見たくて、心平生家に立ち寄った。「ちょうど小川をよく知っている人が来ているから」と、武田嘉代子さん(84)を紹介された。13年前に小川中学校の近くに引っ越すまで、赤ちゃんのころから生家のそばで暮らし、一帯が遊び場だったという。
 心平生家がリニューアルされた時から生家ボランティアをしていて、いまも月に2回続けている。当番でなくても、時折、ふらり遊びに来ていて、この日もそうだった。
 
 「お墓がそこの常慶寺にあるけれど行ってみる?」。嘉代子さんは線香を手に案内してくれた。磐越東線沿いを歩いて裏から墓地に入り、本堂の左側にある、ひときわ大きく立派な墓が、遠平をはじめとする白井家の墓。以前は周りにカラタチが植えられていた。
 心平の墓参りには何度も訪れていたが、遠平も同じ墓地に眠っているとは知らなかった。「じゃ心平さんにもお線香をあげてね」と促され、心平の墓にも手を合わせた。「先祖の墓より大きくしてくれるな」という遺言通り、心平の墓は小さい。「心平さんはドクダミが好きだから」と、わざわざ植えた女性がいるそうで、墓の周りをドクダミが覆っていた。
 本堂前のあじさいのそばには、馨の句碑「風は小凪我ルビコンを渡らばや」が建っているが、朽ちて判読不能で、言われなければわからない。山門は大正9年(1920)の上小川の大火事での焼失に伴い遠平が再建したもので、2000年に瓦が葺き替えられた。

 そんなふうに、ゆかりの地を歩きながら地区の人に話を聞くと、そのころの息づかいが感じられ、違う時代に生きながら身近に思えてくる。もちろん、まず阿部家に話を聞き、残された資料などに目を通してのことたが、少しずつ膨らんできて立ち上がってくる。(敬称略)


 特集 88年前の地図 阿部家のこと

第8弾は平字才槌小路の阿部家。江戸前期から四町目で塩の販売をしていた旧家だが明治39年の大火事で家屋敷や財産を失い、住まいを転々とした。その家の長男が政右衛門で、慶応大学を中退して細々と運送業をしていた。そこに、上小川村から嫁いだのが白井遠平の孫・コト。二人三脚で財をなし、才槌小路に土地を求めて家を建てた。二人の波瀾万丈の人生を追った。

阿部家のこと
火事ですべてを失った政右衛門に嫁いだコト
ルーツは四町目
家業を継ぐ
極貧生活
石炭景気に沸く
「平凡」を立ち上げる
野球部を支援

白井遠平のこと
阿部コトや草野心平の祖父・遠平。政財界で名を売り、いわきの石炭産業を大きくし、常磐線敷設の足がかりを作った。その人生を追った。

 政右衛門(72)とコト 昭和36年3月 自宅にて
 記事

記事ALPS処理汚染水差止訴訟

言い分が食い違い平行線のまま
裁判の口頭弁論が6月13日に福島地方裁判所で行われ、東電は「原告らの人格権は侵害されていない」と主張し、請求棄却を求めた。その様子を伝える。次回は10月1日。


収蔵庫のはなし2
 
とみおかアーカイブ・ミュージアムのはなし
この博物館の特長は『収蔵エリアが科なり広くとられていて、レスキューされた資料が展示室に並べられるまでのプロセスがみられること。専門学芸員の門馬健さん(41)に建設の経緯や込められた思いなどを聞いた。

資料救出活動から生まれたミュージアム
富岡町の人々の目線の資料
生きる術を身につける




 連載

木漏れ日随想(21)佐藤晟雄
思い出の天心美術館

パンドーラーの箱(21) 福島の海から考える 天野 光 
トリチウムは生物凝縮するのか


 コラム

刊Chronicle 安竜 昌弘

いわき的
白井遠平と河野広中はどこが違うのか