第521号

521号
2024年11月15日
矢吹道徳さんの自宅のうしろにある離れ「無量庵」。囲炉裏端に
さまざまな人が集った

      森は人を生かす

 それは突然の訃報だった。体調を崩していたことは人づてに聞いていたが、また、いつものように「こんにちは」と資料を持って、編集室を訪ねてくれるとばかり思っていた。ところが10月16日の夜、矢吹道徳さんは帰らぬ人となった。享年76、11日後には77歳の誕生日を迎えるはずだった。
 矢吹さんには今年の年明け早々、「紙面を読んで」の執筆を依頼して、1月から3月にかけて3回、書いてもらった。その際、浜通り医療生活協同組合顧問、原発被災いわき市民訴訟原告団副団長、新安保法制違憲ふくしま平和訴訟原告団事務局長と、原稿ごとに肩書きを変えた。ほかにも、すぐに思い浮かぶだけで、いわきフォーラム90事務局長やいわき歴史文化研究会副代表兼事務局長など、活動の幅はとても広い。
 「ひかりごけ」や「月光の夏」「日本の青空」といった上映会も開いた。護憲派の日本を代表する憲法学者の樋口陽一さんや、憲法九条堅持を訴える元政治家の古賀誠さん、自らの戦争体験を踏まえて平和の尊さを訴え続けた元政治家の野中広務さん(故人)などを招いて講演会も開催した。
 それら活動の根底にあるのは平和を願い、いのちを守る思い。まち歩きやホタル狩り、海水からの塩作りなど楽しいことをするのも大好き。さまざまな場所に出かけ、いろいろな人に会っていろんな話をして、交流を深め、さらに人と人をつなぐ――それが矢吹さんの生き方だった。
 いわき市平下高久の自宅うしろに「無量庵」と名づけた矢吹さんの書斎兼書庫がある。35年ほど前に建てた2階建ての離れで、1階にはいろいろな人が集まれるように、囲炉裏を切った和室がある。
 これまでに、どれほどの人が無量庵を訪れたのだろう。あれは何の集まりだったか、30年前の晩に十数人が囲炉裏端で鍋をつついた。それは賑やかで笑い声が絶えず、さまざまな話が飛び出し、だれもが楽しんでいた。
 遅れて来たのは、当時、いわき市の国際交流員だったクリスさんで、いつの間にかふすまに筆で「栗須参上」と書いた。どうしてそんなことになったのかは覚えていないが、たぶんイギリスに帰国する前の置き土産だったと思う。
 つい先日、矢吹さんの家を訪ね、帰りに娘の裕美さんにお願いして、主のいない無量庵の囲炉裏の部屋に入った。時間の蓄積が感じられる、さらにいい風合いの空間になっていて、あの時、クリスさんが書いた文字がそのまま残っているふすまに、矢吹さんの温かさを感じた。
 北側のふすまには、だれかが書いた「森は人を生かす」の文字。かずやと名前が記されているので、仲間で医者の北山和也さん(故人)が書いたようだ。その言葉に、そうか矢吹さんは、出会った人々のこころに苗木を植えて、森をつくろうとしたに違いないと思った。平和を育て、いのちをいつくしむ森を。そのバトンは出会ったそれぞれに手渡されている。


 特集 さようなら矢吹道徳さん

反戦平和、核廃絶運動などと取り組んできた矢吹道徳さんが亡くなった。67歳だった。自らは表面に立たず、人をつないだ矢吹さん。そのつながりは主義主張を超えて右から左まで屈託なく横断した。矢吹さんの人生を振り返りながら、関わり合った人たちの声を拾った。

原点は東北大学時代の民主化闘争
一貫して反戦、平和、核廃絶
大学での目覚め
市役所に就職
浜通り医療生協へ
3.11を体験して

好きなように生きた
娘の裕美さんのはなし

何かをやろうと言うのは矢吹さん
瀬川千佳子さんのはなし

人生の盟友を失ってしまった
伊東達也さんのはなし

探究心が旺盛で人を排除しない
佐藤英介さんのはなし

広い人、速い人-やぶちゃんを偲ぶ
鈴木英司

矢吹さんとの想い出
広田次男

亡くなる1カ月前に市役所時代の先輩の告別式で弔辞を読む矢吹さん

 記事

止められない私の歩み 斉藤とも子さん 

2 広島とのかかわり
舞台「父と暮らせば」がきっかけ

 連載

木漏れ日随想(30)佐藤 晟雄
青春のあん掛け飯



DAY AFTER TOMORROW(261) 日比野 克彦
ハバナビエンナーレ
キューバを襲ったハリケーン
そしてトランプの当選

 コラム

ストリートオルガン(195) 大越 章子

茨木のり子さんと庄内
母と祖母、夫を思うもう一つのふるさと