第557号

557号
2026年 5月 15日
川内村の畦道を歩く心平  川内村教育委員会提供

 

    悲しみや怒りや喜びから
    湧き出た言葉が詩になった

 

 書かれたものが雑雑なのは。
 おれ自身の凹凸のせゐだ。
 凹或ひは。
 凸だけであればよかつたのだ。
 だけだつたらましだつたのだ。

 永い長い一本の道であつたのだが。
 一本の道のなかのカミソリバの一本道。(詩とはさういうものだらう。)
 それがなかつた。

 デコボコデコボコ。
 今更。
 仕方もあるまいさ。
 一つ覚えのカキクケコを綴りながら。
 灰になるまでは炎えながら。
 飯をくらひ。
 酒を飲み。
 独眼。
 遠耳。

 ゼニのいらない空気を時には深深吸ひながら。
 歩いてゆくより仕方がない。

 そしてしづかに。
 向うの方へ。
 (草野心平詩集『凹凸』の「序詩」より)

 この詩集は1974年(昭和49)10月に、筑摩書房から限定1000部で出版された。心平は71歳だった。この年には、長年連れ添った妻、や満が66歳で逝き、その前年にも、かけがえのない友人、古田晁(筑摩書房会長)を65歳で亡くした。「そしてしづかに。/向うの方へ。」という最後の2行に、当時の心平の胸の内が、透けて見える。

 心平は亡くなった年(1988年)の5月24日、微熱が続いたため、大事をとって武蔵野赤十字病院に入院した。そのころの心平は2度にわたる脳梗塞の後遺症で、言葉が不自由だった。退院日の9月5日、「天山に行きたい」と駄々をこね、そのまま車で川内村にある天山文庫へ向かって10月27日まで静養した。晩年は入退院を繰り返し、満身創痍の状態だった心平を川内村へ向かわせたのは、何だったのだろうか。心平が85年の生涯を閉じたのは、その16日後だった。

 草野心平記念文学館で6月7日まで、企画展「草野心平と川内村」が開かれている。それに合わせて川内村を訪ね、心平のこころを探した。1953年に初めて川内を訪れた心平は、亡くなるまでの35年間、村民から贈られた天山文庫に滞在し、自然と人間のなかに入って素朴で純粋な人たちと過ごした。

 その周辺を「五光」と名づけた東村山の自宅と、川内村の天山文庫。その2つの場所こそが晩年の心平にとって、悲しみや怒りや喜びが波打つ宇宙であり、湖だった。そこから湧き出た言葉が、詩になった。


 特集 草野心平と川内村

草野心平記念文学館で6月7日まで、「草野心平と川内村」が開かれている。それに合わせて川内村を訪ね、心平の心を探した。心平と川内村のエピソードとともに40年にわたって心平を支え続けた山田久代のことを紹介する。

心平と川内村
川内のどぶろくは交響楽的珍種
川内村にある平伏沼は天然記念物、モリアオガエルの生息地。心平はそれを見に行ったことがきっかけでたびたび訪れるようになり、名誉村民に推挙され、天山文庫を贈られた。

きっかけ
天山文庫のこと

矢内真理子さんのはなし
酒を飲みながら本堂でドンチャン

辻まことの墓
生き方を映すようにひっそりと

山田久代のこと
ひっそりと影から心平を支えた
心平には40年連れ添って心身ともに支えた女性がいた。山田久代。関内裕人さんの調査を元に久代のエピソードなどを紹介する。

関内幸介さんのはなし
東村山と川内村でバランス

矢内俊晃和尚と心平 天山文庫で 川内村発行「草野心平とかわうち」より

 記事

船生弘親さんのはなし

作品の持つ美しさをこの手で表現して伝えたい
いわき市小川町上平の安養寺住職船生弘親さんが5月24日、平大町のアートスペースエリコーナで、初めてのリサイタルを開く。8年近いブランクを経て、再びピアノと向かい始めて10年。僧侶とピアノへの思いなどを聞いた。

 連載

阿武隈山地の絶滅危惧種 ㉜ 湯澤陽一
コシダ シダ類 準絶滅危惧

木漏れ日随想(64)佐藤 晟雄
名前に秘める不撓不屈の精神

パンドーラーの箱 福島の海から考える 24 天野光
福島の海に2025年度までに放出された放射能と低レベル放射線の影響



DAY AFTER TOMORROW(279) 日比野 克彦
文化的処方のこと
文化はその土地の風土・歴史、日々の営みから育まれる