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泉町の冨岡さきさん、6月の誕生日で92歳になる。平にあった藤田女学校を出て、小学校の先生になった。尋常小学校の恩師だった夫の藤太郎さんは終戦の1カ月半前、フィリピンのミンダナオ島でマラリアにかかって亡くなった。
先生を続けながら、女手1つで2人の子どもを育てた。あまり頑張りすぎたのか、30代後半に体を壊し、先生を辞めざるを得なくなった。それでも子どもは養っていかなければならない。治療を受けながら、ひそかに洋裁学校へ通
った。病気が治るまで5年かかった。そのころのことを思い出すと涙が出てくる。
体がよくなってから、自宅で縫い物を始めた。男物も女物も縫えて、仕事はきれいで丁寧で、心がこもっていると評判だった。段々に、洋裁は既製品に押されたが、和裁もできたから、暮らしには困らなかった。男物の袴を縫える人はそういなかった。
1人目のお産の時、産室の向かいにお地蔵さんがいた。お産の苦しみのなか、お地蔵さんが目の前に現れ、励ましてくれた。だから、赤いちゃんちゃんこを縫って、いろんな場所のお地蔵さんに着せに行く。「ほほえみ」と名づけたかわいい人形を作って、お寺と神社にも贈っている。
1年ほど前、「人生の締めくくりに、作品展を開きたい」と家族に相談した。自分の作品で思うように展示室を飾ってみたかった。コツコツ縫って準備をし、展示レイアウトも自分で考えた。人でごった返す展示室をぐるっと眺め、「まっ、よくやった」と自分を誉める。
興味をそそられるものに出合うと、やってみたくなる。ぼんやりテレビを見ているのでなく、好きなことをして暮らす。だれにでも何かしらあるはず。周囲の草むしりや、花を植えることでもいい。
同居している娘さんが出かけた隙に、バスに乗って小名浜まで行って、公園を掃除することがある。もちろん娘さんが帰って来る前に戻り、何もなかったふりをする。30代後半の病から、医者通
いと薬は欠かせない。それでも「医者はある程度治してくれるけれど、あとは自分」と強気。「わたし、死ぬ
のを忘れちゃった」と微笑む。
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