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 磐城平藩を延享4年(1747)から宝暦6年(1756)までの10年間治め、大阪城代になった井上正経のあと、美濃加納(岐阜市)藩主の安藤信成(のぶ ひら)(1748-1810)が磐城平藩5万石(うち分領が27000石)の藩主に命じられた。前年の2月に父の信尹(のぶ ただ)は乱行が原因で隠居処分を受け、息子の信成が家督を継ぎ、15000石を減封された。
 もともと安藤家は三河国の豪族で、代々、徳川家に仕えた譜代大名。信正の家系の初代・重信(基能の次男)は家康の小姓として育ち、関ヶ原の戦いでは秀忠軍に属し、その後、秀忠付きの老中となり、下総国小見川藩(千葉県香取市)に20000石の所領を与えられた。大阪冬と夏の両陣に参戦後に、下総国小見川藩(千葉県香取市)から上州高崎藩56000石に加増移封された。
 3代の重博の時に備中松山藩(岡山県高梁市)、4代の信友の時に美濃加納藩、そして6代の信成の時、磐城平藩に国替えさせられた。
 信成は奏者番(大名や旗本が将軍に謁見する時、姓名や進物を披露し、下賜物を伝達する取次ぎ役)、寺社奉行、若年寄と昇進し、寛政5年(1793)に老中になった。磐城平藩には藩校「施政堂(し せい どう)」(のちに佑賢堂と改称)を創設し、藩士の子弟に学問や武芸を教育した。学問は漢学を主とし、その後、兵法や洋学も取り入れ、磐城平藩の学者を育てた。
 7代の信馨(のぶ きよ)(1768-1812)は文化7年(1810)に家督を継ぎ、初入封の際、間引きの悪習に胸を痛め、改善につとめた。藩主になってわずか2年、45歳で亡くなった。8代の信義(1787-1843)は信馨の養子(病のため家督を継がなかった信厚(のぶ ひろ)の息子で、信馨の甥)だった。
 その跡を継いだ9代の信由(のぶなり)(1801-1847)は信馨の五男で、天保2年(1831)に奏者番となり、7年後、江戸城西丸御手伝普請(土木建設工事)を命じられ、凶作続きの磐城平藩の財政はよりいき詰まっていった。磐城平藩に移った当時、安藤家にはすでに70万両の借金があった。
 だから、弘化4年(1847)に信由が没し、10代目の家督を継いだ信正がまず手がけたのは藩財政の改革だった。その信正が坂下門外の変のあとに老中を辞め、隠居を命じられて家督を継いだ11代の信民は、文久3年(1863)にわずか五歳で亡くなった。
 そのため、信正の甥の信勇(のぶ たけ)が12代となり、戊辰戦争後、陸中国東磐井郡(岩手県一関市付近)に転封を命じられたが、朝廷に取り消しを嘆願して願いが聞き届けられ、明治2年(1869)に復帰し、版籍奉還で知藩事(のちの藩知事)になった。2年後、廃藩置県で従来の藩は県になり、信勇は藩知事を免職となって東京に移り住んだ。磐城平藩も消滅した。


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