いわき市平の松ケ岡公園に、磐城平藩主・安藤信正の銅像が建っている。高さが3mもあり、台座も合わせると7mを超える。かつて望郷山と呼ばれたこの高台には、藩士たちがふるさとの方角を見て郷愁に浸った、という言い伝えがある。265年にも及ぶ江戸時代、磐城平藩は鳥居、内藤、井上、安藤と徳川譜代の大名による統治が行われた。なかでも、幕末から明治という歴史の転換期に生き、時代に翻弄されたのが信正だった。
信正は、日本史の教科書に出てくる唯一のいわき関係の人物として、知られている。しかしその印象は、必ずしもよくない。安政の大獄を強引に推し進め、吉田松陰などを死に追いやった井伊直弼を補佐する立場だったこと、坂下門外の変で負傷し、事実無根の噂を流されて老中の座を追われたこと、戊辰戦争で抗戦派を支持し城を失ってしまったこと…。これは、徳川幕府という体制に敢然と闘いを挑んで明治維新への風穴を開けた、坂本龍馬や高杉晋作とは対照的だ。
しかしよく調べてみると、一般的な信正像は、勝者がつくった歴史認識の上に立っての誤解であることがわかる。実は信正は、次から次へと難しい判断を迫られる激動の日々のなかで決して媚びず、冷静に物事を判断し、処理した有能な政治家だった。それは大隈重信の「彼は姦物でもなければ、逆賊でもない。機略あり、見識ある上に、更に操守がある。幕末の宰相として、一個の卓抜なる外交家、政治家と言わねばならぬ
」という言葉が証明している。
外国船の来航で鎖国が揺らぎ、勤王攘夷の嵐が吹き荒れた。外国人を襲撃する事件もあとを絶たなかった。それを強権で抑えようとした井伊大老がテロ集団に殺された。その反動が革命をあと押しした。そんなとき、内政と外交の舵とりを任されたのが信正だった。井伊亡きあと、攘夷派の標的は信正に移り、坂下門外の変が起こった。しかし、井伊と信正の思想信条はまったく違っていた。信正は人間愛にあふれ、是々非々で物事を判断する江戸時代には珍しいリーダーだった。「生まれた時代が悪かった」としか言いようがない。
桜田門外の変のあとに吹き荒れた信正下ろしの風は、容赦なかった。「敵に背を向けて背中を切られた。武士にあるまじき行い」という評判が立ち、それがエスカレートして賄賂や女性問題に発展した。そうした意図的な悪意の噂が「在任中の不正」という理由にされ、老中の座から引きずり下ろされた。そして謹慎、蟄居を命じられる。これは幕府体制を一新して主導権を握り幕府を弱体化するための、薩摩を中心とする改革派の陰謀だった。信正は静かに野に下った。いつの時代も同じことが繰り返されている。
信正が詠んだ、こんな歌がある。
散りはてて
面影かほる山ざくら
きのふの雲はけふのしら雪
老中退任後の信正の心中をうかがうことができる。
生きていれば信正は200歳。これを機会に少しでも、歪められた信正像の誤解が解ければ、と思わずにはいられない。
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