428号 2021年1月1日 |
顕微鏡を考える道具とした最初の思想家
医学者・吉田富三(1903—1973)は、前から気になる存在だった。とはいえ、「石川郡浅川町出身の癌研究者」程度の知識しかない。おそらく、心のどこかに癌への恐れがあり、知らず知らずのうちに意識を遠ざけていたのだと思う。それにしても、同じ福島県出身の医学者・野口英世と比べると、その知名度において、天と地ほどの違いがある。
初冬のある日、鮫川村から隣町の浅川町に足を延ばし、初めて吉田富三記念館を訪ねた。紳士然とした風貌、愛用のパイプ、ネクタイ、顕微鏡、そして遺した言葉の数々。平屋建ての、決して大きくないその建物には、富三のまっすぐに生きた人生が息づいていて、引き込まれた。
東北の寒村に生まれ、神童の誉れが高かった富三は、東京府立一中(現在の日比谷高校)を受験し、福島訛りが障害になって口頭試問で落ちてしまう。しかし、失意のなか進学した私立錦城中(現在の錦城学園高校)での体験が、「多様性こそが自由世界の力」という自らの人生哲学の原点になり、どんな場面でも真理や本質を見ようとした。富三の長男でNHKのディレクターを務めた直哉は「父を一言で表すのは至難の業だが、言うとするならば、顕微鏡を考える道具とした最初の思想家だろうか」と書いている。
富三には反骨精神があった。
戦争で負けたあと、「いよいよ面白くなるね」と言った14歳の直哉を、「これからは大変な時代になる。良かれ悪しかれ別の国になっちまう。アメリカに移植されて、プカプカ浮いている妙な社会になるだろう」と諭した。借り物を嫌う富三らしい言葉で、アメリカによる植民地化を見事に言い当てている。
医療界のボスとして君臨していた日本医師会会長、武見太郎に敢然と挑戦状を叩きつけたこともある。病理学者でありながら地域に根ざす臨床医の重要性を感じていた富三は、負け戦さを承知で日本医師会長選に出て、医師の本分とは何かを堂々と論じた。そのときは家に投石される嫌がらせもあった。
漢字をできるだけ減らそうとする一部の動きに対して「漢字仮名交じり文こそが日本語。漢字があるから微妙な造語力を持つことができる」と国語審議会に提案し、文部省を中心とした時の権力にも立ち向かった。執拗に食い下がり、最終的には「国語は漢字仮名交じりを以って、その表記の正則とする」という審議会での合意を取りつけた。
「病理学は死を納得する学問。だから戦争などによる納得のいかない死、理不尽な死には怒りを覚える」と話していた富三。顕微鏡で癌細胞を見ながら世界や人間社会を思い、自らの生き方を問い続けた人生だった。
特集 にんげん 吉田富三 |
「顕微鏡を考える道具とした最初の思想家」と息子の直哉に呼ばれた病理学者・吉田富三。福島県浅川町出身で、優れた癌研究者として知られる吉田富三。その言葉から、人間性、考え方などを紡ぎ出す第一弾。「にんげん吉田富三」に迫る。
個人的自由について
海図のない航海
戦争のなかで
どんなことにもこだわりを持つ
吉田富三記念館名誉館長 内田宗壽さんのはなし
内田宗壽さんは平成5年の吉田富三記念館の開館から2020年春まで記念館館長を務め、現在、名誉館長に就いている。内田さんにはなしを聞いた。
田子家の人々――母のナヲと叔父の勝弥
富三の母のナヲと叔父の勝弥は石城郡三坂村大字上三坂の造り酒屋の田子家で生まれ育った。ナヲと勝弥、それに現在、田子家を守っている令直にふれる。
記事 |
「本丸跡150年」の続報
私の本棚
『たいせつなこと』
マーガレット・ワイズ・ブラウン 作
レナード・ワイスガード 絵
うちだややこ 訳
(フレーベル館・1200円+税)
連載 |
戸惑いと嘘(62) 内山田 康
時間(5)
阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(25)ヤブコウジ
ひとりぼっちのあいつ(6) 新妻 和之
青い山脈、こころの山脈
もりもりくん カタツムリの観察日記⑬ 松本 令子
生きる
ぼくの天文台 粥塚伯正余話(5)
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コラム |
ストリートオルガン(158) 大越章子
交響曲第10番
残されたスケッチの断片から作曲