449号 2021年11月15日 |
失われてしまった小名浜八景
江戸時代前期から中期に生きた俳人、内藤露沾(1655―1733)が選んだといわれる「小名浜八景」を探して、東の下神白綱取から西の泉町下川の照島まで海岸線を中心に巡った。キーワードは諏訪、虎山、御崎、松之中、綱取、大原、照島、岡山の八つ。残っている俳句や漢詩から情景やイメージを頭に浮かべて、俳人や詩人がいたと思われる場所を特定していく。しかし詠われてから少なくても300年以上経っているわけだから、風景ががらりと変わっていて、とても難しい作業だった。
そもそも「八景」とは室町時代に中国の宋や元の文化が入り、水墨画が流行したことから始まる。その題材となったのが中国湖南省の名勝地、瀟湘八景だった。それがきっかけになって琵琶湖周辺から八景を選んで和歌が詠まれて近江八景となり、神奈川県の金沢八景は北斎や広重などによって描かれ、全国的に有名になった。
磐城では露沾の父で磐城平藩の三代藩主・内藤義概(風虎)に仕えた山本三左衛門武純が、御台境(内郷)に芭蕉軒という住まいを構え、周辺の景色を「芭蕉軒八景」と名づけた。のちに和歌8首を添えて「芭蕉軒歌留書」(1666年)を残している。さらに、同じ内藤家家臣の井出弥三郎正倫が「愛谷村慈眼院八景記」(1687年、西小川の宝聚院が所蔵)を表した。
次に露沾が登場する。1695年(元禄8)、暮らしていた六本木の内藤家下屋敷が燃えて磐城の高月屋敷に移り住んだ露沾は、藩内を歩いて自ら景勝地を見立て、訪ねてきた俳人たちと一緒に吟行を重ねた。そして平や内郷などから選んだ「平曲松八景」(長橋、小島、山崎、御厩、掘坂など)、勿来地区(大高、関田、大嶋、小浜、佐糠、平潟など)の「大高八景」などを選んだ。
さて「小名浜八景」。諏訪は諏訪神社、虎山は浄光院、照島は照島で、場所が特定できる。そして御崎は三崎公園周辺の岬からの風景を詠んだものだろう。大原も藤原川の堤防あたりだから、ヨークタウン大原の裏付近だろうか。松之中は「はま寿司」近くにバス停がある。かつては松林が連なっていたが、いまは工場群に変わり、白砂青松の面影はない。岡山は岡小名のこと。びっしりと店舗や住宅が建ち並んでいる。唯一、カインズホーム近くに古刹・安立寺があり、古くからの旧家が集まっている。そこから詠んだと思われる。最後に綱取。採鮑組合、造船所、ケーソンヤードなどが集まっていて、海が近い。新産業都市指定などによる近代化が、優雅で風光明媚だった小名浜八景のほとんどを失わせてしまった。
2022年は内藤家が磐城平の藩主になって400年にあたる。これを機に当時に思いを馳せ、埋もれてしまった歴史に光を当てることができれば、と思う。
特集 寺史から見える地域 『小名浜浄光院誌』より |
いわき市小名浜古湊に浄光院という真言宗智山派のお寺がある。この夏、浄光院(久野真琴住職)は『小名浜浄光院誌』を刊行した。著者は、いわき歴史文化研究会代表の小野一雄さんと歴史研究家の佐藤孝徳さん(故人)。構想から約25年もの長い年月をかけて作られ、一般的な寺史とは違ってまちの歴史や人々の暮らし、文化などにふれている。本が作られた経緯や久野さんたちの思いなどを紹介する。
『小名浜浄光院誌』のはなし
従来とはまったく異なった寺史を作ろう
浄光院のはなし
観音堂から始まった歴史
小名浜八景のこと
露沾と俳人たちの交流から生まれる
八景を探して
すっかり変わってしまった風景
小名浜のこと
内陸部の住民が海の近くに移動
記事 |
衆議院選 2021
福島五区は自民現職の吉野正芳さんが8回目の当選を果たした。野党統一候補の養蚕新人、熊谷智さんは55000票強を集めたが及ばなかった。背景などについて書いた。
秋吉 久美子さんのはなし(上)
吉野せいのこと
第44回吉野せい賞記念講演会として秋吉さんが話した。演題は「女優という人生」の予定だったが、秋吉さんが『洟をたらした神』を読み、その気高い生き方、美しい言葉や文章に共感し、作品について語った。
日々の本棚
『すごいトシヨリ散歩』
池内 紀 川本 三郎 著
毎日新聞出版刊・1870円(税込)
投稿 先﨑 千尋さん
「東北」は東京の植民地―河西英道『東北史論』から学ぶ
未来に向かって扉を開いていく
連載 |
戸惑いと嘘(73) 内山田 康
幾度も越えられた無数の浜辺(5)
阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(46)ノコンギク
ひとりぼっちのあいつ(27) 新妻 和之
校長講話の原点
時空さんぽ 再び 〜磐城平城を訪ねて(15)
其の十四 桜町
DAY AFTER TOMORROW(225) 日比野 克彦
美術館と野外の関わり
展示室の作品と屋外の朝顔がつながった
コラム |
ストリートオルガン(165) 大越 章子
森は海の恋人
人のこころのなかに木を植え、森をつくる