468号 2022年8月31日 |
「ならぬものはならぬ」という会津の精神風土
会津というと戊辰戦争、白虎隊という悲劇の歴史がすぐ頭に浮かぶ。それを培ったのは、会津松平家の藩祖・保科正之が頑なに守ろうとした、徳川家至上主義だった。ひたすら道義を通すという、生真面目すぎる藩風は幕末という激動の時代のなかで翻弄され、ついには長州から恨みを買って血祭りの標的にされた。
司馬遼太郎はその著書『街道をゆく』で「歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは会津若松市しかない」と書いている。そして、幕末の藩主、松平容保が主人公の『王城の護衛者』を著した。この、無垢でまっすぐな九代藩主・容保へのまなざしが優しくて温かい。
会津若松はかつて黒川と呼ばれていて、鎌倉初期から室町末期までは芦名氏がこの地方を治めていた。その居城は、鶴ヶ城の南東2㎞ほどのところにある小田山(372m)で、現在は公園になっている。その後、豊臣秀吉の時代になって、キリシタン大名でもある蒲生氏郷が、42万石で入ることになる。1590年(天正18)のことだ。
その氏郷が城を現在地に移して七層の天守閣を完成させ、町の骨格をつくっていく。さらに地名を黒川から若松に改め、城の名前も「黒川城」から「鶴ヶ城」として会津若松の基盤が出来上がった。蒲生家の家紋が舞鶴で氏郷の幼名も鶴千代だったことから、鶴ヶ城になったとされている。
そのあとに会津に入ったのが上杉景勝。1598年(慶長3)に会津120万石の城主になった。しかしその年の8月に秀吉が死去したことから徳川家康との対立が深まり、微妙な立場に立たされる。景勝は勢力を拡大するために、会津盆地のほぼ中央に新しい城(神指城)を造ろうとしたが、そうした動きに危うさを感じた家康が会津征伐を仕掛け、石田三成率いる西軍として戦った関ケ原の戦いでの敗戦などで、米沢(山形県)に移されてしまった。
関ケ原後は蒲生氏郷の子、秀行が宇都宮から会津に戻って再び城主になった。しかし、江戸時代に入ってから心労が重なり、1611年5月(慶長16)に30歳の若さで亡くなってしまう。わずか10歳であとを継いだ忠郷も、14年後(寛永4)に早世したために加藤嘉明、明成親子の治世になったが、お家騒動で領地を幕府に返上。そのあとに、満を持したかたちで保科正之が、山形の最上から会津に入った。
それから9代藩主の容保まで、220年以上にもわたって正之の思想が受け継がれていくことになる。
会津若松は歴代藩主が商業を活発にし、さまざまな産業を奨励して、まちとしての基盤をつくった。そこに「ならぬものはならぬ」という確個たる士風や独自の風儀が積み重ねられ、「私心を持たない」という、会津の潔癖さにつながっていく。9月19日まで福島県立博物館で開かれている「新選組展2022―史料から辿る足跡」にちなんで、幕末の会津を紐解く。
特集 会津と新選組 |
幕末の会津の悲劇を思う。藩主・松平容保はなぜ重臣たちの意見に耳を貸さずに京都守護職を引き受けたのか。その結果、戊辰戦争、白虎隊の悲劇が引き起こされることになる。9月19日まで福島県立博物館で開かれている「新撰組展2022―資料から辿る足跡」にちなんで、会津藩のこと、幕末の藩と新撰組との関わりなどについて紐解いた。
会津松平家の時代
松平容保と幕末
近藤勇と新選組
戊辰戦争と会津藩
ゆかりの地を歩く
ギャラリー見てある記
「新撰組展2022―資料から辿る足跡」
政治的考えも読みとれる
記事 |
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