第474号

474号
2022年11月30日
2005年10月に訪ねた前橋でのひとこま

                朔太郎と心平がいたころの前橋

      広瀬川白く流れたり
 時さればみな幻想は消えゆかん。
 われの生涯を釣らんとして
 過去の日川辺に糸をたれしが
 ああかの幸福は遠きにすぎさり
 ちひさき魚は眼にもとまらず。

 萩原朔太郎の「広瀬川」という詩。『純情小曲集』に入っている。17年前の秋、朔太郎のふるさと、前橋を訪ねた。「日々の新聞」の第64号(2005年10月31日付)で「心平がいた前橋」を特集することになり、その取材だった。草野心平は1928年(昭和3)の9月から2年とちょっと、前橋に住んでいたことがあり、離婚して2人の娘と実家に帰ってきていた朔太郎と交流があった。朔太郎と心平、2人が息をしていた75年前の名残を求めての小さな旅。広瀬川沿いには柳の木があり、曲がりくねりながら前橋のまちを流れていた。

 生活がおぼつかなかった心平は、なんとか上毛新聞社の校正係の職を得た。そこに朔太郎が「虚妄の正義」を持ってやって来た。心平が26歳、朔太郎は43歳だった。それから2人は将棋を指す仲になり、一緒に飲み歩くことが増えた。「あのころは酒と議論がガソリンだった」と心平が書いている。
 『萩原朔太郎大全』という本に当時の前橋の地図が載っている。心平の『わが青春の記』によると、二人は、前橋で一番都会的な喫茶店「梅松堂」でよく将棋を指し、夜は花街にある「小谷」という居酒屋や「黒猫」で飲んだという。地図には「小谷」をはじめ、朔太郎が懇意にしていて文学青年がよく集まっていた「太田写真館」、白秋と一緒に行った蕎麦屋「新玉」、好きなビールを飲んだ「ツボ」「キリン食堂」、上質な牛肉を売っていた牛肉店・西洋料理店の「赤城亭」などの位置が示されていて、とても興味深い。
 心平は「高村光太郎は近代詩の父、朔太郎は母」という言い方をする。そもそもは金子光晴の言葉だそうだが、心平の感性だと「日本の楽器なら光太郎は太鼓、朔太郎は笛。父と母との違いが確かにあった」ということになる。そして朔太郎は酔うと「紅屋の娘」(作詞・野口雨情、作曲・中山晋平)をよく歌っていたそうだ。
 「三好君(達治)は詩人だが、君は批評家だね」と朔太郎に言われて「批評家とはあきれた」と心のなかでつぶやいた心平だったが、前橋に来て間もなく「上州は錆びた刀で畳を切るような味がある」と詩人ならではの感想を述べている。いわきから前橋までは250㎞弱。心平を通して前橋や朔太郎がつながり、身近になった。春にでも再訪できたらと思う。


 特集 萩原朔太郎大全

 ことし2022年は詩人・萩原朔太郎の没後80年。それにちなんで全国52の文学館や美術館では企画展「萩原朔太郎大全2022」が開かれている。いわき市立草野心平文学館でも12月18日まで、「詩の岬」をテーマに自作原稿やノートを展示している。また11月13日には朔太郎の孫で前橋文学館館長の萩原朔美さんが講演した。朔太郎の人生を振り返るとともり、朔美さんの講演を紹介する。

 萩原朔太郎の人生

 萩原朔美さんの講演
 朔美さんは「私が出逢った詩人たちー草野心平さんの思い出」と題し て、それぞれに出合う言葉があることを話した。

1924年(大正13)、38歳ごろ 前橋文学館提供

 記事

峰丘さんのはなし
 11月21日まで、ギャラリー木もれびで個展を開いていた峰さんに震災、コロナ、ロシアのウクライナ侵攻のなかで、アーティストは何ができるのかを話してもらった。
               


稲垣久和さんに聞く

 東京基督教大学特別教授の稲垣さんは春からいわきで暮らしてきた。持論である4セクター論(行政、企業、コミュニティ・協同組合に加えて家族・寺・教会など)について話してもらった。


シネマ帖 ダウントンアビー/新たなる時代へ 




 連載

戸惑いと嘘(88) 内山田 康
遠くから島を振り返る②

阿武隈山地の万葉植物 
湯澤 陽一
(70)カツラ

鎌倉殿といわき(随時)痴鈍空性

パンドーラーの箱(8)福島の海から考える 天野 光


 コラム

月刊Chronicle 安竜 昌弘

70年代の記憶
ちいさくてゆっくりしたものを守っていきたい