479号 2023年2月15日 |
美しい海岸の印象は忘れられない
ノーマン・メイラー
小学生のころ、遠足で小名浜の砂浜を歩いたことがある。記憶をたどってみると、7号埠頭、藤原埠頭、大剣埠頭あたりだろうか。いまとなっては藤原川が砂浜を通ってどんなふうに海に注いでいたのかも定かではない。ただ、砂漠のように砂浜がはてしなく続いていた印象だけが残っている。
小名浜はかつて、白砂青松の美しい砂浜だった。遠浅のために外洋の波をもろにかぶり、水揚げや荷揚げが大変だったことから、まず漁港としての岸壁や波を遮る防波堤をつくりはじめた。さらに石炭を出荷するために桟橋がつけられ、泉―小名浜間を走る臨海鉄道が敷かれた。港は重要港湾として次から次と整備され、砂浜は完全に姿を消した。臨海鉄道沿いにわずかに残っていた松林もいまではすっかりなくなり、「松之中」という地名だけが残っている。
まだ砂浜が美しかった時代、ピューリッツァー賞作家であるノーマン・メイラーが小名浜に2カ月滞在したことがある。メイラーは1923年(大正12)、アメリカニュージャージー州ロング・ブランチで生まれ、ニューヨークのブルックリンで育った。ハーバード大学に入学して小説に興味を持ち、18歳のときに最初の作品を発表。『裸者と死者』『夜の軍隊』など従軍経験を題材にした作品が多く、ノンフィクション小説の革新者として評価が高い。
メイラーは1944年(昭和19)、第二次世界大戦の最中に21歳で陸軍第112騎兵連隊に入隊し、レイテ島とルソン島の戦いに従軍。翌年に日本が無条件降伏すると、千葉県の館山に上陸した。その後銚子に移り、1964年(昭和21)の2月と3月の2カ月間、小名浜に滞在した。目的は旧日本軍の弾薬などを処理するためで、炊事斑の1人でもあった。進駐軍が使っていた建物は栄町にあった水産試験場だったという。
小名浜が語られているメイラーの小説は『ぼく自身のための広告』に入っている「兵士たちの言葉」。そこには「彼は海岸をもっと北へ行き、小さな港町に駐屯している部隊に配属された(中略)例の炊事兵と一緒の部屋で、何年このかたはじめて比較的ひっそりと生活することができた。港町は美しかった」とある。さらに「アメリカの夢」の解説者に「小名浜の美しい海岸の印象は忘れられない」と話したという。
2007年(平成19)11月10日、メイラーは急性腎不全のためにニューヨークの病院で死亡した。84歳だった。多感な青年時代に日本での生活を体験したメイラー。いま、三崎公園の高台に立って小名浜のまちを見渡したら、どんな感想を述べただろうか
特集 いわきの海岸線を歩く3 |
特集の第3弾は小名浜(三崎公園からマリンブリッジ)まで。かつて白砂青松の砂浜が広がっていた小名浜だが、いまはすべてが岸壁になり、その面影はない。2月3日から3日間、その周辺を歩き、小野賢司・晋平が小名浜で果たしてきた役割などを調べながら、さまざまな人に話を聞いた。
歴史のこと
小野賢司・晋平親子が抱いた夢
三崎公園
散歩する女性のはなし
犬を連れた男性のはなし
マリンタワーに上っていた男性二人連れのはなし
港界隈
アクアマリンパークで釣りをする男性のはなし
楢葉の女性釣り人のはなし
まちなか
魚屋のご主人のはなし
記事 |
メトロノーム
銅像の移転
公共用地にある銅像の行き場
小説家 松村栄子さんのはなし
1. わたしの文章修行
松村栄子さんの文芸講演会が2月5日、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた。演題は「文学とわたし―いわき時代から京都まで」。その講演内容を何回かに分けて紹介する。
ギャラリー見てある記
武藤雄岳 武藤比呂子作陶二人展
二人のふんわりとした空気
風の通る家 カラスの餌食に
連載 |
DAY AFTER TOMORROW(240) 日比野 克彦
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何を残し、何を伝えるのか。その意味は?
コラム |
ある新聞のこと
戦時下に憩いと想いの午后を取り戻す京都での試み