496号 2023年10月31日 |
あのころは人が近づかない杉森の深い木立の谷間だった
恥ずかしながら、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「中山義秀展」(12月24日まで開催)が開かれるまで、その存在を知らなかった。
中山義秀(1900―1969、本名・議秀)は福島県岩瀬郡大屋村(現在の白河市大信)出身の芥川賞作家で、故郷には記念の文学館がある。「どうせやるなら自分の好きな道に進もう」と早稲田大学高等予科に進学し、横光利一と出会って文学に目覚めた。
大学卒業後は教職に就くが、横光など大学時代の仲間たちの活躍に焦燥感を抱き、辞めて創作活動を始めた。不遇の時代を乗り越えて、1938年(昭和13)に芥川賞を受賞。続いて発表した『碑』で作家の地歩を固め、戦後は歴史小説を手がけた。
義秀は一時期、石城郡平町(現在のいわき市平)に住んだことがある。両親と5歳上の兄の謙寿と一家4人で大屋村から移り、小学1年生の秋から翌春にかけて半年ほど暮らした。当時の平町は炭鉱景気で賑わい、父は炭鉱の事務職に就こうとした。しかし学校教育をほとんど受けてなかったために難しく、生活は苦しかった。
義秀と謙寿は新しい学校になじめず、毎日のように駅裏の城山にのぼり、眼下を走る汽車を眺めながら、大屋村に帰りたい思いをまぎらわせていた。そのうち、人が近づかない城の裏にある谷間の丹後沢にも行くようになり、沼で魚をすくったり、ヒシの実を採ったりして遊ぶようになった。
丹後沢は城の内堀だったところ。ある日、朽ちた舟に乗って沼のまんなかまでヒシを採りに行くと、竹竿が折れて舟ははびこる藻にのって動きがとれなくなった。謙寿が必死に水をかいても進まず、助けを求めても反応はなかった。
すっかり日が暮れたころ、探しに来た両親が息子たちの声を聞きつけ、木立のなかを駆け下りてきた。父は裸で沼に飛び込み、ふたりを助けてくれた。
そんな思い出のある城山に、義秀は芥川賞の受賞後に白河へ里帰りをした際、石城郡四倉町(現在のいわき市四倉町)まで海水浴に足を延ばし、帰りに立ち寄った。9月というのにかまわず泳ぎ、旅館の湯もぬるかったため、風邪を引いて中耳炎になった。帰路、その痛みをこらえて、平駅(現在のいわき駅)で途中下車したという。
30年ぶりにのぼった城山は、昔とはずいぶん趣が違っていた。山全体が草木に覆われていたはずだったが、てっぺんは赤土の裸の丘に変わり、ぽつんと社殿が建っていた。裏の丹後沢の沼はすっかり埋め立てられ、住宅地になっていた。谷を埋めつくしていた杉木立も跡形もない。あまりの変わりように、しばらく茫然と立ち尽くした。
そのあと義秀は実家で療養したが耳はよくならず、東京の自宅に戻って3カ月後、やっと治癒したという。
義秀にとっていわきはいい思い出のない地だが、中耳炎の痛みを押しても城山や丹後沢を歩いたその気持ちを思うと、まんざらでもない気がしてならない。
特集 愛谷江筋をたどる |
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主に夏井川の南側の田んぼを潤す愛谷江筋のこと
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水守神社と大国魂神社のこと
根岸遺跡のこと
猪狩満直の詩碑のこと
江筋沿いで暮らす
菅波の田んぼで農作業をしていた男性のはなし
まちを流れる江筋のそばで暮らす女性のはなし
夏井廃寺近くで畑の手入れをする女性のはなし
記事 |
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