523号 2024年12月15日 |
歴史に光をあて 何を学ぶかを考える
茨城県常陸太田市の鯨ケ丘にはかつて、佐竹氏が居城として使っていた太田城(舞鶴城)があった。いまは太田小学校になっていて、その片隅に建っている石碑だけが、その名残をとどめている。その一帯は馬の背を思わせる台地で、「鯨ケ丘」という呼び名は、その丘が洋上を漂っている鯨を思わせることから名づけられた、という伝説がある。その高台と下の地域との行き来をつないでいるのが「太田七坂」と呼ばれる七つの坂で、風情がある。
好天に恵まれた12月3日、鯨ケ丘を訪ねた。これまでも何回かおとずれ、「眉見千石」と言われた板谷坂からの眺望などを楽しんできたが、今回は歴史散歩に絞った。戦国時代に常陸地方の北部を支配していた佐竹氏と磐城地方を治めていた岩城氏とは、婚姻や養子縁組を通して盟友関係にあり、関ヶ原以後はともに出羽久保田藩(秋田)と出羽亀田藩(現在の由利本荘市)に転封された。その後、亀田藩は久保田藩の支藩のように佐竹に従属していた時期もある。佐竹のルーツを探るということは、岩城を知ることでもある。
いわきもそうなのだが、常陸太田も重層的に歴史が存在している。最初に佐竹氏が入ったとされる馬坂城跡、佐竹氏の初代が三百貫を寄進し、代々の祈願所になったと伝えられる佐竹寺、さらに太田城跡、佐竹氏の菩提寺・正宗寺、江戸時代に入って水戸光圀が晩年を過ごした西山荘、水戸八景の一つ「太田落雁」、国の指定重要文化財である旧茨城県立太田中学校講堂(太田一高・付属中敷地内)などを巡った。さらに、かつて太田町役場、市役所として使われ、いまは郷土資料館になっている梅津会館の重厚さにも惹かれた。中に入ると、館長が丁寧に説明してくれた。
佐竹氏は470年にわたって常陸太田周辺で権勢を振るったが、100年もの間、同族同士が血で血を洗う内部抗争に翻弄された。それがなんとか落ち着き、やっと常陸統一を果たしたのが戦国時代末期。南に攻め入って水戸の江戸氏を追い出し、そのときに本拠を太田から水戸に移した。しかし関ヶ原の戦いのあと、徳川家康から突然、出羽への国替えを命じられ、水戸は徳川家が治めることになる。太田城は一部が残されたとはいえ一国一城令によって廃城になり、明治時代の払い下げで、土塁や堀は宅地や道路になった。
坂を下って「太田落雁」の碑の前に立った。とても見晴らしがよく、遠くに阿武隈の連なりが見える。水戸藩九代藩主で烈公と呼ばれた徳川斉昭はその風景を眺め、「さして行く/越路の雁の/越えかねて/太田の面に/しばしやすらう」と歌を詠み、「太田落雁」(太田の落雁芳洲を渡る)と命名したという。支配や時代が移り変わっても自然の営みは変わらず、山や川や空はずっとそのままそこにある。世界各地で戦争が行われているいま、過去の歴史に光をあて、そこから何を学ぶかを考えたい。
特集 いにしえの常陸太田 |
いわきから高速道路を使って1時間20分ほど。茨城県の県北に位置する常陸太田市はかつて、佐竹氏の城があった。佐竹氏は戦国時代、岩城氏との関係が深く関ヶ原後は伴に出羽国(現在の秋田県)に転封された。常陸太田の歴史に焦点を当て、佐竹氏やその後常陸を支配した水戸徳川家ゆかりの地を歩いた。
730年もにわたり茨城と秋田を治める
内部抗争に明け暮れた佐竹氏
そのルーツ
山入一揆
国替え
歴史さんぽ
常陸太田市にある佐竹、徳川ゆかりの場所を歩き、いにしえの常陸太田に思いを馳せた。
梅津会館のはなし
梅津福次郎からの贈りもの
佐竹寺のはなし
佐竹寺の祈願所
馬坂城のはなし
佐竹氏の祖とされる昌義の居城
正宗のはなし
佐竹一族と佐々宗厚淳が眠る
西山荘のはなし
光圀が晩年を過ごした隠居所
太田落雁のはなし
水戸八景のひとつ
市村眞一さんのはなし
佐竹時代のものは埋もれていてあまり残っていない
記事 |
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いわきFCを追いかけて 島貫真
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4 3・11から
肥田舜太郞さんからの教え
ギャラリー見てある記
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連載 |
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