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| 実家に飾ってある中国時代の油絵
当時の苦悩が見える |
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地平線プロジェクトを支えた志賀忠重は、蔡の故郷・福建省泉州市に1回だけ行ったことがある。万里の長城を1万メートル延長するプロジェクトが行われた1993年のことだ。きっかけは単純だった。蔡が土産に持ってくる中国茶が実にうまい。聞いてみると生まれ故郷の安渓鉄観音茶だと言う。「じゃあ、本場のお茶を飲みに行こう」ということで、1週間ほど泉州を訪れたのだった。
志賀は、そこで初めて蔡が生まれ育った家を訪ね、書家であり、水墨画家でもある蔡の父親と会った。そして、蔡の芸術の原点が、その家にあることを実感した。
華僑のふるさと
泉州は1000年以上前から海のシルクロードの玄関として知られている古都で、マルコポーロも「東方見聞録」の中で、エジプトのアレクサンドリア港と並ぶ世界2大貿易港と評している。人口は約655万人。東海岸に位
置し、海峡を挟んですぐ向かいには台湾がある。年平均気温が20.5度という亜熱帯海洋性気候。日本だと沖縄とほぼ同じだ。
長い間貿易港として栄えた泉州だったが、その後河口が自然の泥砂によって埋まってしまい、大型船が入港できなくなって、衰退の一途をたどることに。そして、人々は華僑として台湾や東南アジアの国々へ渡ることになる。
志賀は泉州の古い街並みを歩きながら、その歴史と蔡の人間性を思った。頑ななところがなく穏やかで、さまざまな変化にも対応できる。それは、同じ家の中に仏教徒もイスラム教徒もキリスト教徒もヒンズー教徒も混在するという、おうような世界で育ったからなのだろう。文化が交流し合うことで多様な価値観を持ち得た泉州で生まれ育ったからこそ、あの、柔軟思考の蔡があるのだろう、と思った。
造反有理
蔡は1957年に生まれた。そして1966年、蔡が9歳の時に文化大革命が起こる。既存の権威が次々と否定された。「泉州の誇り」ともいえる開元寺も紅衛兵によって壊された。蔡も紅小兵として教室の机や椅子を壊した。毛沢東の「造反有理」という思想。つまり、権威は尊敬しない。今までのすべてを否定し新しいシステムをつくろう、という考え方。蔡は優等生でリーダーだった。積極的に毛思想を学び影響を受けた。それが、時代の風を受けるに従って蔡の体の中で独特の変化をもたらし、より自由な表現を求めるようになっていく。
蔡はテレビのインタビューで、毛思想と自分の作品の関係についてこう言っている。
「『造反有理』という考え方にはもちろん間違いはいっぱいある。しかし、方法論として影響を受けた。体の中に刻まれている」
青年になった蔡は上海演劇大学美術学部に進む。1981年のことだ。伝統的な油絵を描いていた蔡の心の中に既存の表現に対する疑問がわき上がってきた。それは「あまりに魅力と偶然性に欠け、コントロールしやすい。アートはもっとメチャクチャであっても良いのではないか」という思いで、実際、授業はちっとも面
白くなかった。そこにはアカデミックな指導に対する反発もあった。父とも議論した。より新しいものを求めようとする蔡に父は言った。「もっと足元を見ろ。中国の芸術の中にも学ぶものがいっぱいあるはずだ」。
蔡は苦悩していた。そして、当時婚約者だった呉紅虹と一緒にシルクロードやチベットへの旅を敢行する。近代中国社会の大きなうねりの中で、自分はどこへ行こうとしているのか―。それは自分探しの旅でもあった。
苦悩とジレンマ
泉州の蔡の実家には1枚の油絵が飾ってある。「どこへ行っていいかわからない自分」といった意味の題名がついている。絵を描くことが大好きだった蔡は、まず西洋絵画をめざした。既成の路線に飽きたらずに自分なりの表現を求めるようになった。しかし、当時の中国ではそれが思うようにできず、どうしようもないジレンマに陥った。そうした状況を打開してくれたのが、シルクロードの旅だった。さまざまな遺跡や人々が生きてきた手跡と接すれば接するほど、自分が中国人であることを強く意識するようになった。そして、中国人が発明し、身近な存在である火薬を使っての火薬画へと移行していくことになる。
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