|
■回廊美術館
4月28日の日曜日。その日は、清々しい青空だった。平神谷地区の里山で展開されている「万本桜プロジェクト」の一環として進められてきた「いわき回廊美術館」オープンの日で、そこには、ニューヨークからやってきた蔡國強(55)の姿があった。3.11以降、蔡はいわきの仲間たちのためにさまざまな支援をしてきた。自らアイデアと資金を出し、プロデュースした回廊美術館もその1つだった。
開館祭であいさつに立った蔡は「回廊美術館のオープンは、二十年前に行った地平線プロジェクトの延長。世界中の人たちがここに来て出会い、対話できる場になるといいな。夢をつくることができる、想像力をかきたてられる場になるといいな、と思ってつくった」とうれしそうな顔をして話した。
■志賀の思い
3.11。地震、津波、原発事故…。地平線プロジェクトの中心メンバー、志賀忠重は、今回の事故前から、原発や放射能に恐れを抱いていた一人だった。線量
計も持っていた。福島第一原発の実態が次々と明らかになるにつれて、「大変なことになった」と思った。電源を喪失し、核燃料を冷やすことができなくなり、メルトダウンに陥った。線量
計で放射線量を測ったら通常の20倍を超える値を示していた。家族を千葉へ避難させた。
千葉といわきを往復する日々のなかで、はじめの2カ月ぐらいは避難所を回って足りないものを配ったり、炊き出しボランティアなどをした。全国から支援物資が集まるようにもなった。志賀はどんなときでも、思いついたらすぐ行動する。しかも行政に頼るようなことはしない。それが、志賀の主義といえた。
そんなとき、ニュースで「放射能が恐ろしくて、いわきに来るタンクローリーの運転手がいない」という事実を知った。愕然とした。そして「いわきは近寄り難い土地になってしまった。寂しい。未来の人たちに喜んでもらえる何かを残したい」。そう思うようになった。
震災から少したって、桜の季節が巡ってきた。桜は何事もなかったように、いつもと同じく美しい花を咲かせた。その光景を見ながら、「桜をたくさん植えよう」と思った。「だれもが来たくなるような、後世の人たちの誇りになる桜の名所をつくる」。そう決意すると、志賀の行動は早い。見晴らしのいい、この場所と思える山の持ち主に趣旨を説明して、承諾を得た。「いいことだ」と賛同してくれた。そして2011年の5月8日、第1回目の植樹会を行った。震災から2カ月もたっていなかった。
■蔡といわき
一方の蔡は、ニューヨークでやきもきしていた。いわきの仲間たちのことが心配でならないのだが、思うように連絡がとれない。20年以上前、社会的にほとんど無名だった蔡。この、縁もゆかりもない中国人アーティストの面
倒を見て、やりたいことをやらせてくれたのが、志賀や藤田忠平(ギャラリー磐城経営)を中心とする、いわきの仲間たちだった。
いわきの仲間たちは、その後、蔡がニューヨークに活動の拠点を移して、世界的に注目されるようになったあとも、支え続けた。蔡が「廃船がほしいのです。何とかなりませんか」と連絡をよこせば、自腹を切って砂浜に埋もれていた廃船を掘り出し、分断してコンテナで蔡の元に送った。それを組み立てるのも、いわきの仲間たちだった。廃船は、蔡といわきの仲間たちの手によって魂を吹き込まれ、展覧会の顔になった。
「トラベラー(旅人)」と名づけられた廃船による作品はその後、タイトルを「いわきからの贈り物」と変えて、世界を回ることになる。そのたびに蔡は、いわきの仲間たちを招待して組み立てを手伝ってもらい、必ずレセプションで紹介した。そこには、「この人たちがいなかったら、いまの自分はいません」という思いがあった。
■恩返し
「震災と原発事故でいわきの仲間たちが苦しい思いをしている」。蔡はいたたまれない思いで北京に連絡して作品をオークションにかけ、売上金を仲間たちに送ることにした。そして「1日でも早くいわきに行ってみんなの手伝いをしたい」と思った。志賀は蔡の思いやりに感謝しながら、「万本桜プロジェクトに使わせてもらいます」と言った。
蔡はそれを聞いてびっくりした。「なんでこんなときに。生活そのものが大変なのではないのか」と思った。しかし、志賀の真剣な思いを聞き、「なんてロマンティックな発想か。とても芸術的。こんなときに、こんなことをしようとすること事態がすばらしい」とあらためて思い、協力することを誓った。
蔡は震災後、いわきを3回訪れている。最初は震災から1年2カ月後の2012年5月8日、さらにその年の秋、第24回高松宮世界文化賞を受賞した2日後の10月25日、そして回廊美術館がオープンした今回、4月28日だ。
万本桜プロジェクトの現地を初めて訪ねたとき、蔡は「桜の山のわきに美術館をつくれないだろうか」と思った。しかし、建設には莫大な費用がかかるし、運営の問題もある計画は暗礁
に乗り上げたかにみえた。そのとき、蔡が「志賀さん、あの場所に龍が昇ってくるような回廊をつくりましょう」と言った。蔡はさらさらとイメージ図を描き、少したって本格的なイラストが届いた。材料は伐採した木をあてることにした。工事はほぼスタッフによる手作業にした。
■永遠を求めて
完成した回廊美術館を見た際は「ここには調和がある。建築らしくない素朴さがある。しっかりしたバランスがある。みなさんのためにつくった美術館なので、自由に使ってください」と言った。
この回廊美術館の建設費は、蔡が昨年受賞した、高松宮世界文化賞の賞金1500万円の半分を寄付して賄われた。残りの半分は、蔡がニューヨークへ渡るときに援助してくれたACC日米芸術交流プログラムに贈った。蔡はどんなに自分が有名になっていても、かつての恩を忘れない。一番最初に自分のことを『美術手帖』で紹介してくれ、いわきとの縁を繋いでくれた美術評論家・鷹見明彦(故人)に対してもそうで、いつも心の片隅には鷹見がいる。
回廊美術館の屋根に蔡の生まれ故郷である、中国福建省泉州製の瓦が置かれ、火薬で火がつけられた。その瞬間煙が走り、まるで龍が姿を現したようになった。会場が高揚した。
蔡はよく海外でいわきについて話す。「特に何もありません。小さな山と海があって、とっても普通
の日本があるだけ。それが心の原風景になる。自然と人間に優しい感じがする」。その言葉の奥にあるのは、いわきの仲間たちとのつきあい方だ。利害を持たず、つねに人間として対等。そして、ともに参加してつくる。そこに楽しさがあり、達成感が生まれる。そのプロセスを記録した写
真の数々は、まるでアルバムのようでもある。
「確かに廃船による作品はみんなとの共同作業ですが、この20年間のつきあい、関係こそが作品なのです」。そう蔡が言った。
「万本桜プロジェクト」は今後も桜を植え続け、百年をかけて99000本を目標に植え続けるという。中国での9は永遠を表す数字だそうで縁起がいい。永遠。それは蔡と仲間たちの願いでもある。
|