442号 2021年7月31日 |

深緑のユニフォームをもう一度
楢葉(ならは)標葉(しねは)のいにしえの
名も遠きかな大八洲(おおやしま)
その東北(ひがしきた)ここにして
天の恵みは満ちたれり
1980年(昭和55)8月11日の昼前、阪神甲子園球場に双葉高校の校旗がはためき、校歌が鳴り響いた。相手は鹿児島県代表の川内実業(現在のれいめい高校)。2年生の4番打者、西山竜二が逆転ホームランを放って3—1で勝った。新聞には「アトム打線」「原発対決」という活字が躍った。関係者にとっては、まさに感慨無量だった。
双葉郡はかつて農業と漁業をなりわいとし、農閑期になると男たちは出稼ぎに出ていた。そうした土地に地区民の情熱で生まれたのが、双葉高校(当時は双葉中)だった。その後、原発が誘致され、関連企業も立地して潤っていく。そうした時代背景のなかで、双葉高校野球部があった。
ことし3月18日、双葉高校を訪ねた。グラウンドには雑草が生い茂り、バックネット裏には遠征で使われたバスが埃にまみれたまま放置されていた。10年前に起こった東日本大震災と原発事故。3km先の東京電力福島第一原発から放射性物質が大量に飛散し、双葉高校は立ち入りが禁止された。
あのとき(2011年3月11日午後2時46分)、双葉高校のグラウンドでは野球部が打撃練習をしていた。それを最後に部員たちはバラバラになり、満足な練習ができなくなった。
その年の夏、なんとか単独チームで大会に出たが、翌年からは連合チームになり、双葉のユニフォーム姿は2016年の3人が最後となった。そして、2017年に休校になった。
荒涼とした廃墟の双葉高校に立つと、ありし日の双葉高校ナインの姿がよみがえる。アイボリーのユニフォームに刻まれた「FUTABA」のアルファベット文字、深緑の帽子、アンダーシャツ、甲子園出場回数が白いラインで示されたストッキング。守備を固めて最少失点で守り切る、負けない野球…。そんな、最後まで諦めないひたむきさを双葉郡の人たちは愛した。それは、自分たちの誇りでもあった。
双葉高校はこれまで、3回甲子園に出て2勝している。念願の初出場は創部50年目の1973年(昭和48)で、優勝した広島商と初戦で戦い、0—12と大敗を喫した。その逆境がバネとなって双葉の野球をさらに強くした。高校はいまも休校のままで、深緑のユニフォームは見られなくなってしまったが、みんなの心のなかには、そのはつらとしたプレーが、さまざまな記憶や思いになって息づいている。
特集 双葉高校と甲子園 |

2年後に創立100周年を迎える双葉高校は、原発事故の影響で2017年から休校している。野球部は創立の翌年に生まれて3回甲子園に出場し、2勝している。双葉郡の中核校としての歴史を振り返るとともに、甲子園でのエピソードなどを集めた。
双葉高校のはなし 百年の歴史
双葉高校野球部のこと
1973年 初出場
1980年 2度目の甲子園出場
1991年 3度目の甲子園

渡辺 広綱さんのはなし
暑さのために体調を崩す

石田 幸大(ゆきお)さんのはなし
負けないチームだった

遠藤 拓郎さんのはなし
アルプススタンドからも聞こえてきた校歌

田中 貴章さんのはなし
夏前は監督宅で弁当付きの合宿

相原 登司輔さんのこと
妥協せず、残ったものだけで頂をめざす

泉田 健一さんのはなし
相原さんは名監督です

記事 |
日々の本棚
『こどもサピエンス史 生命の始まりからAIまで』
著 ベングト=エリック・エングホルム
絵 ヨンナ・ビョルンシェーナ
訳 久山 葉子
NHK出版・1980円

ギャラリー見てある記
中原淳一展 ― 美しく装うことの大切さ
市立草野心平記念文学館 ~9月12日

連載 |
戸惑いと嘘(66) 内山田 康
太平洋(4)
阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(39)ヒカゲスゲ
ひとりぼっちのあいつ(20) 新妻 和之
タービトーブ 吾が小天地
時空さんぽ 再び 〜磐城平城を訪ねて(8)
其の七 六間門