455号 2022年2月15日 |
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
東京・東伏見に詩人の茨木のり子の家がある。建築家の従姉妹と一緒に設計したという山小屋風の家で、1958年から夫と2人で暮らし、2006年に79歳で亡くなるまで50年近くを過ごした。この間、1975年に夫を亡くし、それからはひとり暮らしだった。
1カ月ほど前、NHKのクローズアップ現代で茨木が取り上げられ、家のなかをカメラが映した。リビングのカレンダーが物語るように、2006年2月で時間は止まっている。居間の「倚りかからず」の椅子も、棚に並べられたグラスも、書斎に並んだ本も。
おそらく書斎にあったのだろう。テープ類と書かれた箱のなかに、NHKのラジオ番組に出演した時の100分ほどの肉声が残されていた。メディアの取材をいやがった茨木が、77歳の時に自らの人生を語ったもの。前に世田谷文学館で自作を朗読した録音を聞いたことがあるが、それよりも印象通りの凜とした声だった。
「自分を本当に弱い人間で『だめなやつ』というのは、いつもありますのね。ですから自分を叱咤激励するという意味で詩を書いているというのもあるんです」。茨木は話す。「自分の感受性くらい」の最後の、ばかものよ、は茨木も、その詩を読むわたしたちも、みんな自分に向けての言葉だ。
その原点は戦争体験にある。茨木は隊列の先導をする軍国女学生だった。19歳で敗戦を迎え、とたんに世の中は民主主義に変わり、戦争という大きなうねりに呑み込まれ、流されていた自分に気づいた。そして自分の目で見て、頭で考えることが一番、間違いが少ない、と悟った。社会が1つの方向に進むとき、個人が無批判に同調していく恐ろしさを、のちに繰り返し語っていたという。
23歳で結婚し、翌年、詩の雑誌に初めて投稿した。「自分の感受性くらい」を書いたのは1975年、48歳の時。自らの感受性を守れれば、まっすぐ自分を生きていける、と。晩年の「倚りかからず」では、個として立ち続けることの大切さにふれた。どちらも、自分が自分であるためになくてはならないものだ。
茨木はいま鶴岡市加茂の浄禅寺の墓に夫と眠っている。命日は2月17日。今年、17回忌になる。
特集 内藤六代 |
徳川譜代の内藤家が磐城平藩を治めるようになってから、ことしで400年になる。その治世は初代の政長から六代の政樹まで125年に及んだ。内藤六代とはどんな時代だったのか。お家騒動と文化振興にスポットを当てながら、振り返った。
磐城騒動のこと
松賀族之助のこと
風虎と露沾—義概・義英親子の俳諧のはなし
碑めぐり
いわき市内には内藤風虎、露沾、露沾の息子の沾城の句碑や歌碑がある。寺社を参詣したり、名所を訪れたりした際に句や歌を詠んでいた。平中平窪の常勝院、平中神谷の出羽神社など碑をめぐりをして、内藤家時代に思いを馳せる。
記事 |
ジャーナリスト 外岡秀俊の眼
小説家としての遺作『人の昏れ方』を中心に、外岡さんの思いをまとめた。
連載 |
阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(52)テイカカズラ
ひとりぼっちのあいつ(32) 新妻 和之
皆さんが私の先生でした①
時空さんぽ 再び 〜磐城平城を訪ねて(21)
其の十九 本丸
DAY AFTER TOMORROW(228) 日比野 克彦
アート感覚の時間
みんな、違う時間で生きている
コラム |
ストリートオルガン(168) 大越 章子
モーゼスおばあさん
人生はいつでもつくり出す