二本松の市街地には商店街に通じる3つの坂がある。駅から近い順に久保丁坂、切り通
し坂、亀谷坂。3月末、亀谷坂を上りきる少し手前に、坂の駅「亀谷坂 露伴亭」がオープンした。露伴亭の露伴はもちろん幸田露伴のことで、およそ120年前の夜、20歳の露伴は亀谷坂を疲れた体でふらふら歩いた。
幸田露伴の本名は幸田成行。慶応3年(1867)、江戸下谷三枚橋(現在のアメ横商店街の真ん中)に、下級武士の幸田利三の四男に生まれた。その年、徳川幕府が幕を閉じ、時代は江戸から明治に移り、収入の道を失った幸田家は住まいを転々とした。家計は苦しく、成行は中学を中途退学して図書館に通
って独学した。
16歳の時、逓信省電信修技学校に給費生で入学し、卒業後は通信技師として北海道の余市に赴任した。2年後の明治20年(1887)、文学を志して夜逃げ同然で余市を飛び出し、少ない所持金で東京を目指した。
余市を出たのが8月25日。湯の川温泉に10日ほど滞在し、青森に着いたのは9月11日。浅虫、野辺地、五戸、渋民、一関と南へ向かい、北上川は船で下った。石巻、松島、仙台には8日間滞在し、馬車で福島に向かった。
福島に着いたのは9月28日の日暮れ。聞けば、郡山から東京までは汽車が走っているという。その乗車賃と持ち金はほぼ同額。それならばと、夜通
し歩いて郡山まで行くことを決めた。飲まず食わずで歩き、二本松を通
りかかったのは夜半過ぎ。ちょうど、ちょうちん祭りが行われていて、まちは賑やかだった。
成行は亀谷坂のてっぺんにあった阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いた。体力、気力とも限界で、初めは道端の草に腰を下ろしたが、そのうちに道の真ん中でこうもり傘を置いて休むようになり、最後にはほとほと疲れてごろり大の字になった。そして、いつかのたれ死にをする時があったら、きっとこんな感じだろうと想像した。
里遠し いざ露と寝ん 草枕
成行は東京へ向かう道中、度々、句を詠んでいる。一番つらく苦しかった二本松から郡山の間ではそう詠んだ。郡山からは無事、汽車に乗り、29日午後、東京に着いた。
二本松で露を伴にしたあの一夜が忘れられず、2年後、文壇にデビューした時、発奮の意味も込め、ペンネームを「幸田露伴」にした。北海道から東京までの旅を綴った日記「突貫紀行」はのちに公開した。
坂の駅「露伴亭」は地区の人たちの手作り。基礎工事、土蔵風の建物の建築、水回り、電気、内装と、ボランティアの輪は業者の人たちにまで広がって、完成した。日曜日は「ロハン市」を開き、新鮮な野菜が売られ、露伴が食べた阿部川屋のもちも作られる。普通
の安倍川もちはきなこをつけた後に黒蜜をかけるが、阿部川屋のもちは黒蜜の後、きなこをまぶすという。火曜から金曜はカフェになり、スリランカカレーやお茶を楽しめる。
亀谷坂を上りきったところにある阿部川屋はいま石屋をしている。道を挟んで向かいには「幸田露伴 ペンネームゆかりの地」の碑が建っている。亀谷坂のてっぺんから北側に続くのは竹田の坂。その両側には家具屋が多い。
文学を志し、夢を抱いた若き露伴を想像しながら、亀谷坂を歩く。苦境に立つ度、露伴はこの坂を歩いた夜を思い出し、自分を勇気づけ、気持ち新たにしたのだろう。蝸牛、脱天使など多数の雅号を持つが、生涯、露伴の名を大切にしたという。
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