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 参議院議員の川田龍平さんが11月15日、いわき明星大で講演した。テーマは「誰も言えなかった国会議員の話」。生後6カ月で血友病と診断され、治療に使われた血液製剤でHIV(ヒト免疫不全ウィルス)に感染し、10歳で母から告知された川田さんはこれまでを振り返りながら、薬害が繰り返される社会構造の問題点を説明した。


 薬害は歴史的に繰り返されていて、それは社会の構造に問題があります。薬の安全性や効果 を認証する厚生省の役人たちの天下り先が、製薬企業という構造が続いています。サリドマイドの問題の時に薬務局長だった人がミドリ十字(現在は田辺三菱製薬)に天下って、1980年代に薬害エイズの事件が起きたのです。
 製薬企業と官庁の癒着だけではありません。製薬企業は政治家に献金し、学者にも研究費も出しています。構造薬害と言われる理由です。まだ、薬害は終わっていません。決して過去の出来事ではなく、いま、これからにも繋がっています。被害者はいまも苦しみながら生き続けていますし、私も治療を受けています。
 1970年代、それまで1人、2人の血液から作っていた血液製剤を、2000人から20000人の血液をプールして作るようになり、82年には血友病患者や同性愛者、麻薬常習者の間で奇妙な病気が流行し始めました。84年には、エイズウィルスが同定されました。
 私は生後6カ月で血友病と診断され、3歳半から止血効果の高い血液製剤に切り替わっていました。心配した母が「大丈夫なのか」と医者に聞いたところ、「問題ない」との答えだったそうです。
 日本では79年から濃縮の血液製剤が保険適応になり、大量に使われ始めました。実はこの濃縮の血液製剤が、戦争と関係していることを知っていますか。日本の七三一部隊は戦時中、代用血液での人体実験をしていました。敗戦後、その実験データをアメリカに提供し、濃縮の血液製剤がベトナム戦争で使われました。
 ところがベトナム戦争は75年に終わり、血液製剤がだぶついたのです。日本では78年から輸入し、WHOの「血液製剤は国内で完結するように」の警告にもかかわらず、いまも輸入に頼っています。日本には5000人の血友病患者がいます。そのうち2000人がHIVに感染し、1600人が薬害エイズ訴訟の原告になっています。
  私は小学5年生の時にHIVの感染を知りました。治療を受けるにあたり、しっかりしてほしいという思いと、性感染症ということから、母は悩んだ末に教えてくれたのです。
 本当のことを話してくれたことに、いまは感謝しています。しかし、そのころは荒れました。「自分はあまり生きられない」と、何をやっても無駄 に思え、暗い時代でした。「発病したら自殺する」と言い、母は大変ショックを受けたそうです。
 神戸で女性の第1号の患者が亡くなり、長野で女性の感染者が見つかり、エイズ=死の病の恐怖、差別 がマスコミによってつくられ、過激報道でエイズパニックが起きました。エイズ感染者の99%が血友病患者のため、エイズ=血友病などと間違った報道もされました。
 通っていた小学校は1学年1クラスの小さな学校でした。「川田君は血友病だけどエイズじゃないから」という担任の先生の一言でいじめに遭いましたが、幼なじみの「そういうことを言うのはやめろ」で、いじめはなくなりました。
 中学校に進学してからは、血友病を隠して生活するようになりました。友達との関係はうまくいかず、「いまさえよければ」と過ごしていました。しかし高校生になって、進路の選択があり、自分の将来や働くということを考えるようになりました。
 それに母が病気になり、いつまでも頼ることはできないと思うようにもなりました。避けていたエイズの本も、自分の病気を知りたくて読みました。「日本のエイズは薬害によって起こった」と書かれた広河隆一さんの著書を読み、悔しく許せない気持ちになりました。
 高校2年生の時、薬害エイズ訴訟をすることに決めました。裁判は中学時代に始まりましたが、母は裁判に賛成、父は「国を相手には勝てない。それなら、健康第一に生きていくことが大事」と反対し、両親が言い争っていても、自分には関係ないと思っていました。結局、両親は離婚し、高校3年生の秋に提訴しました。
 匿名裁判で、原告は番号で呼ばれていました。学校を休むときは「病院に行く」と言いました。でもHIVに感染していることを知っていても、普通 に接してくれる人たちがいました。かわいそうと思われたり、同情はいやでしたが、少しずつ周りの人に話ができるようになりました。感染を打ち明けても、つきあっていた彼女は嫌いにならず、そのままつきあってくれました。吹奏楽部の友達は「昨日のお前ときょうのお前は変わらないから、同情しないからな」と言ってくれました。
 1994年、エイズ国際会議が横浜で開かれました。1000人規模のシンポジウムが開かれ、海外から来た人たちは堂々と話していましたが、日本人は白いカーテンで遮り、シルエットしか見えない形で証言しました。海外のエイズ感染者は自国で名前も顔も出して生活しているのに、日本はどうしてできないのでしょう。自分も堂々と生きたくなりました。そのころ私は浪人していました。大学進学が決まって間もなく、実名を公表しました。
 多くの人に薬害エイズを知ってほしいのと、何とか裁判に勝ちたいという思いからでした。どんな反応が返ってくるのかわかりませんでしたが、未成年者の公表は初めてで、マスコミに取り上げられました。当時、月に10回ほど講演をしていました。
 責任の明確化と真相究明、心からの謝罪が裁判の目的でした。どうして薬害エイズを防げなかったのか、それを知りたかったのです。実名公表後、「わたしたちに何かできることはないか」と、中学時代の同級生や高校・大学の先輩から手紙が来ました。3500人の人間の鎖で厚生省を囲みました。
 96年、東京HIV訴訟は和解が成立。裁判長の異動もあって、年度末ぎりぎりの和解でした。賠償金、真相究明、心からの謝罪など納得のいかないところもありました。罪の部分がはっきりしないうちに謝られても、心からとは思えません。
 医療体制がつくられたのは和解の成果で、翌年からHIV感染の治療は進みました。しかし、同年代の人たちは95、96年をピークに亡くなりました。死ぬ のと、殺されるのは違います。彼らは殺されたのです。2度と同じ被害を起こしてほしくなくて、講演や大学の講義で話してきました。
 3年前、社会の仕組みを変えたくて、参議院選に無所属で出馬し、当選しました。しかし無所属では自分が希望する委員会には入れません。昨年、みんなの党に入党し、今年7月から厚生労働委員会に入りました。
 薬害をなくし、薬の研究も進め、日本の将来に希望を持つためには法も整備していかなければなりません。




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