あまりに突然すぎる死に、言葉を失った。
いつも素足にサンダル履き、そしてジャンパー。小さな歩幅でせっかちそうに歩いていた。性格もそのままで、飾らず歯に衣着せず。穏やかな表情が一転して赤くなり、江名弁で直言をぶつけてくることがよくあった。「片山照らしではだめだよ」という言葉が耳から離れない。
市井の伝承者たちの肉声や郷土の民俗、歴史研究の成果が、その体に「これでもか」というほど詰め込まれていた。中央紙の記者に「まるで旗本退屈男のような方ですね。普段は何をしているのですか」と尋ねられたことがあったが、生活や日常のすべてが孝徳さんの興味であり、仕事だった。
船主の家の次男坊。磐城高校から明治大文学部史学科へ進み、大学卒業後は家業を手伝うために実家に戻ってきた。高校のころから漁業史などに興味を持ち、地区の古老などから話を聞いた。それは多様性に富んだ生活史そのもので、その雑談を通しての地道な聞き取りが、『昔あったんだっち−磐城七浜昔話』などとして結実した。在野の研究者でありながら学界からも一目置かれ、母校・明治大学での講演は、まさに晴れ姿と言えた。
地元紙に勤めていたとき、電話がかかってきた。「ちょっとつきあぁねげぇ」と言う。行き先は小名浜のお年寄りの家。江戸時代に小名浜の漁船が安南国(ベトナム)まで流されたことがあり、その子孫らしいというのだ。
当時は海流の関係でそういうことがあったが、それを証明するものがない。言い伝えを元に、一緒に菩提寺の過去帳などをあたった。残念ながら決定的な資料は見つからず、途方に暮れた。そのとき孝徳さんは「残念だった。点と点をつなぐのがおれたちの仕事。線につながってかたちになっときもあっけど、途切れてることがほとんどだ。でもそれであぎらめだら、なんにも始まんねぇがら」と言った。
孝徳さんを隣に乗せてのドライブは話題が豊富なうえに視野が広く、いつも新しいことを気づかせてくれた。
5月30日の夜、孝徳さんは暮らしの伝承郷の館長などを務めた故氏家武夫さんの通
夜に出席し、平の友人宅に寄って楽しく酒を飲んだ。少し足がおぼつかなかったという。車で送ってもらって江名の自宅に着いたのが11時20分前。そして雨戸を閉める姿を最後に帰らぬ
人になった。
死因はアクシデントによる呼吸不全で、死亡推定時刻は午後11時30分。雨戸を閉めて座敷に上がり、障子を閉めようとしたが、土間に頭から落ちて呼吸ができなくなったらしい。翌朝、倒れてすでに息のない孝徳さんを、家族が発見した。
告別式で弔辞に立った山名隆弘さんは「いつも言い合いになったが、そこには前進があった。江名の鰹節のような人だった」と呼びかけ、「ホトトギス 鳴けよ 白雲尽きるまで」という句を霊前に捧げた。
孝徳さんが寝起きしていた趣のある古い木造の家。主を失った一室には「青山白雲」と筆書きされた衝立が、いまもぽつんとある。
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