「歴史家は事実を記録し、後世に伝えなければならない。だからみんなを見送ってから一番最後に逝くから」と口癖のように言っていただけに、その突然の死がいまだに信じられない。
高校同窓だが同じクラスになったことはなかった。日本史の成績はいつもトップで、卒業するときに教科賞をもらった。そのころは変わった人、ぐらいにしか思っていなかった。ある会合で語り合い、意気投合したのがきっかけで交流が始まった。以来、わが家にとって、なくてはならない人になった。
「歴史が恋人」であり、歴史研究が人生のすべてだった。「郷土史家」といわれることを嫌い、もっと幅の広い「歴史家」としてのプライドを持っていた。在野の一研究者として数多くの研究仲間と交わり、資料収集、解析に参加してきた。
彼はいつも「福島県の歴史は会津中心じゃない。いわきには会津に負けない歴史があるのに、どうしていわきの人は自信をもってふるさとの歴史を知ろうとしないのか。新しい歴史を発掘して世に問わないのか」と言い、それを非常に残念がっていた。
いろいろな会合や招待される講演会の場でわかりやすく歴史を語り、いわきにかかわる歴史資料を求めて市内はもちろんあちこち出かけて調査、発表、収集することに一生懸命だった。内藤の殿さまの子孫が所有していた「いわき七浜捕鯨絵巻」を見つけて日参し、いわきに譲ってもらったのも数ある功績のうちの一つだった。
わたしたちには、まだまだ聞きたいこと、知りたいことがたくさんあった。それだけに、取材がほぼ完了した「いわき十九夜講」や取材半ばの「とり小屋」などの調査、研究、未発表の資料がたくさん残されてしまったのが、残念でならない。
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