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常磐ハワイアンセンターのステージで踊る恵美子さん

 常磐音楽舞踊学院での日々は瞬く間に過ぎていった。一期生たちは夏にマスターした3曲の踊りを海岸や夏祭りで披露した。秋には東京、あちこちにある常磐炭砿の会館などで踊り、舞台度胸をつけていった。締めくくりは12月初め、東京・大手町のサンケイホール。昼夜2回の公演は2千人の客席がたちまち満員になり、補助椅子を出すほどだった。
 そして昭和41年1月15日、常磐ハワイアンセンターがオープンした。恵美子さんはステージのそでからこわごわ、観客席を覗いてみた。隣の大プールにこぼれ落ちそうなほど大勢のお客さんがステージ前に集まり、人の波がうねっていた。恵美子さんは体中の熱が一度に上がったような気持ちになった。
 ステージでの初めての踊りはあまり覚えていない。一期生18人、1人も欠けることなくステージに立てた。踊りを見る真剣な眼差し、涙を流して見ている人の姿などは、いまも鮮明に思い出される。翌日から、恵美子さんたちはさらに忙しく日々を過ごした。お客さんが集まると踊りのショーをするやり方だったから、1日中ステージに縛られた。
■ 
 忙しいながら充実した毎日だったが、慣れてくると徐々に恵美子さんは、漠然とした苛立ちを感じるようになっていた。日本舞踊などと違い、フラダンスやフラメンコはレパートリーが限られているように思えた。毎日毎日、同じ場所で踊り続けている自分に「なにこれは、ただ足踏みをしているだけじゃない」などと自問自答した。
 「あのショーはまねにすぎない。本物じゃない」の酷評は腹立たしく、しかしとても気になった。見ているお客さんの心に届き、踊っている自分の心にも通じるような踊りを踊りたいという思いが、恵美子さんのなかで少しずつ大きくなっていった。
 オープンから1年半後、恵美子さんはカレイナニ早川(早川和子)さんとハワイ、タヒチを訪ねた。タヒチの娘たちの踊りを見ながら自分の体を動かし、動きの本質を体得しようとしたが、娘たちのように自由自在な感じは出せなかった。踊りを見て理屈でわかったことが、体で表現できない。恵美子さんは夢中で娘たちの動きに合わせて踊り続けた。
 そのうち疲れてきて体の力が少し抜けたようになると、すっと全身が軽くなり、イメージ通りに動けた。瞬間、恵美子さんは自分の体を使って表現する、踊り芸術の本質にふれた。わが身を使って何度も試み、体から体への技術・文化の伝わり方があることを体験し、タヒチアンダンスは体を使った「もう1つの言葉」で語りかけることを実感した。
 帰国後、恵美子さんは早川さんと香取さんとステージの進め方を何度も話し合い、仲間や後輩に現地で学んだことを伝えた。しかし恵美子さんの目標はもうその先にあった。ステージと観客の一体感、踊りを介して観客と気持ちを通じ合いたかった。
■ 
 「裸踊り」なんて言われることもあったが、恵美子さんはその国の踊りを踊らせてもらっている、という思いがあった。世界にはさまざまな踊りがあり、その国の人々が踊るようにはいかない。しかし、逆に日本人にしかできない踊りがある。
 もちろん、外国人の大胆な踊りもすてきだ。しかし外国人と同じにはいかないし、同じにはしない。日本人は勉強家で、手、指の美しさがある。しなやかできめ細かく、内面をも表現する踊りが日本人の踊り。
 初めてのハワイから約20年後、恵美子さんはフラメンコの本場・スペインを初めて訪ねた。「これが、私が先生としてあなたにしてやれる最後のレッスンかもね」。香取さんはそう言って、恵美子さんをスペイン旅行に誘った。2人は香取さんが初めてスペインに留学した際に寄宿したモラレス家に世話になり、舞踊スタジオを訪ね、ギター奏者に会った。
 香取さんの紹介で、恵美子さんはある夫妻のレッスンを受けた。フラメンコのなかで美しい旋律で知られる「ラ・カーニャ」の振付け指導で、恵美子さんの一生の宝物になった。香取さんは夫妻に「日本でよくここまで育てましたね」と誉められた。
 あとで香取さんは恵美子さんに打ち明けた。「恵美ちゃん、とてもうれしかったわ。本当にこれで、肩の荷が下りる思いだわ」と。  





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