高校に入学して最初の地理の授業は学校周辺の散策だった。プリントとシャープペンシルを持って、地理の先生を先頭にまだよそよそしいクラスメートたちとぞろぞろ歩いた。高麗橋(通
称・幽霊橋)から物見ケ岡、丹後沢。先生は「いまは見る影もないが、その昔、ここに磐城平城があった」と言いながら、お城山を地理と歴史から説明した。
いわきは残らないまち、と言われる。地図上のいわきが残らないという意味ではなく、いわきのなかで培われた、つくられたものが残らない。残さないまち、いまを生きるまちとも言えるかもしれない。残すことがすべてではないし、過去にこだわり続けることがいいとも限らない。でも、いまだけを見つめ、過去や少し先を見ていないように思えてならない。明治に入って民間に細かく切り売りされたお城山は、その象徴のように言われている。
そこで100年という時間の経過で考えてみる。100年以上、いわきに残っているもの。城下町があったにもかかわらず、見回しても、それらしいお菓子や伝統工芸などは残っていない。みんなで話してみても、出てくるのは松村病院や水産試験場、塩屋埼灯台、それに神社仏閣、教会、学校、百歳以上の人などだ。それは独自の文化といえるものをあまり持っていないことにつながる。
いわきに限ったことではないのだろう。民俗学者の柳田国男は「日本の小都市ほど各自の文化を持たぬ都市は類は少ない」と、近代以後の日本を振り返っているという。だから同じようなまちが充満する。どうせ遅れているまちなら、いまに追いつこうとせず、独自文化を培うことが先を見ることになる。
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