ぼくは千葉県佐倉市の農家の長男なんです。小さいころから駆けっこが好きだったんですよ。高校出て農家を継いだんだけど、「箱根駅伝に出てみたい」って思いましてね。黙って家出しちゃったんです。そして二年半ぐらい競馬に狂いました。船橋にある中山競馬場と府中の東京競馬場に通
い詰めました。不思議なもんですね。じっと見てると、わかることがあるんです。「あれ、変だぞ」と思って考えてみると、コースが逆回りで、馬によって得手不得手があったり、坂は馬の首が上がってるとスムーズに登れなかったり…。レースでは3、4番手につけてる馬が勝つ確率が高いのね。勉強しましたよ。
家出から四年後、順天堂大学の体育学部に入ったんです。勉強はできなかったですよ。でも、世の中というのは、ちゃんと助けてくれるんです。教官が回ってくるんですが、答案用紙が埋まっていない。するとグラウンドの方を見ててくれるんです。「早く写
せ」って言ってるんです。で、隣のやつに見せてもらうんです。あるとき、絶対見せてくれないやつがいましてね。あとで言ってやったんです。「お前、心の狭いやつだな。将来出世しないぞ」ってね。そうしたら、この前そいつに会って、「小出、おれほんとに出世しなかったよ」って言ってました。お世辞ばっかり言っていて、ヒラで終わっちゃったらしいんです。
そして千葉県の教員採用試験。みんなが受けるんで「おれも受ける」って受けたんです。ラッキーでした。両脇が東京教育大(現筑波大)のやつだったんです。見事合格です。合格には変わりないですからね。思えばかなうんですね。「どうしても箱根を走る」という思いが、高校の教員という結果
につながった。一生懸命素直に生きることこそが大事なんです。
最初の赴任地は旧制中の名門校でした。千葉県内200校のうち10番以内という進学校です。そこでは、大学のトレーニングのレベルを少し落として、教えたんです。すると、どんどん実績が上がっちゃってね。みんな勝ってくるから、「なんだレベル低いんだなぁ」なんて思っちゃって。でも、それは錯覚なんですね。たまたまうまくいっていただけなんです。
次の学校は佐倉高校。100点満点の85点でも入れなかった。そして、駅伝がどうしても勝てなかった。船橋の中学校にいい子がいてね。成績悪かったんだけど、連れて来ちゃった。そういう時のために先生方に酒ごちそうしてコミュニケーションを図ってたんだから。職員会議が四時間半。僕はじっと見てました。「だれだ反対するやつは。酒飲ましてたのに」って。最後は23対18で入れてもらったんです。
そして創立200年の節目の年。その生徒が言うんです。「きょうは先生のために走ります」。駅伝初優勝です。学校が喜びましてね。次の年は、合宿なんかの予算ががっぽり付きましたよ。
次は市立船橋です。県では勝てるが全国大会で勝てなかった。呼ばれたんです。教育長が「駅伝で早く全国Vを達成してくれ」って言うもんだから「よしっ」って気合い入りましたよ。「全力でやってやる」ってね。そうしたらいい選手が集まってきてね。3年目でした。全国大会の前の晩、生徒たちが言うんです。「監督、あしたは優勝しますから飲んできてください」って。本番はスイスイです。6区で2位
、7区でトップ。そのまま高校最高記録で優勝です。
結局、高校の教員を23年やったんですが、頂点を極めちゃったんで、「次は世界」って思ったんです。高校教員時代、何が良かったか、っていえば、みんなにかわいがられたことですかね。ぼくには嫌いな人がいないんです。それとグラウンドが好きだったことでしょうね。どんなに深酒しても次の日に学校を休んだことがないんです。それだけは自慢できます。 |