GIFアニメ 日々の新聞
CONTENTS
日々の新聞
風の通る家
いわきクロニクル
オンブズマン
編集後記
招待席

田人お伽草紙
草野天平の頁
HIBINO IN IWAKI
時のゆくえ
仲間たちの野辺送り
蔡國強といわきの物語
DUO
オリジナルショップ
定期購読
リンク集
 

 その男性は無念そうに言った。「これからだった。何も始まらないうちに終わってしまって…」。37歳。市内主要企業の一つである常磐交通自動車の社長・野崎俊夫さんの突然の死は、大きな衝撃とさまざまな憶測が交錯しながら、いわきを駆けめぐった。

 何かにつけて注目される人だった。磐城高校から慶應義塾大の経済学部に進み、大和銀行(現りそな銀行)の熊本支社に2年半勤務したあと、ニューヨーク支店に転勤した。1年半にわたってウォール街で世界の経済を目の当たりにし、平成8年に父親の経営する常磐交通 自動車に入った。野崎家の長男として生を受けたときから、それは既定の路線と言えたが、父の満さんからは「社長の資質がないときは跡は継がせないから」と言われて育ってきた。
 ストレートな物言い、議論好き、勉強家、そして心優しくて責任感の強い人…。それが多くの人が語る野崎俊夫像。2年半前に34歳で社長に就任してからは、身動きが取りづらくなった会社を建て直すために大鉈を振るい、会社のスリム効率化と社員の意識改革に全力で取り組んできた。その象徴ともいえるのが、社長就任半年後に行った、バス部門社員約二百九十人をいったん全員解雇し、翌日付で全員再雇用した決断。賃金体系の年功序列制を廃止し、「同一職種・同一賃金」制の導入断行のための措置だった。

 優しさ・人の良さを示すエピソードは、分刻みのスケジュールをこなしているにもかかわらず、頼まれると予定を入れてしまうこと。スケジュールを管理する部署が「もう少しゆったり時間を取ろう」と思い、日程を整理しても、空いたところにすぐ入れてしまう、という繰り返し。行事でも、顔だけ出す、ということができないので予定時間がずれて、結果 、迷惑をかけてしまうということが多かった。だから、いつでも走っているか早足だった。
 「ゴルフをする時間がもったいない」と言い、積極的にゴルフをしようとしなかった。暇さえあれば、経済関係の本を読み、会社を、まちの将来を思った。社員には常にビジョンを示し、自己変革を迫った。頭ごなしに命令するのではなく、社員に挑み続けた。ある時期から役員室を出て社員と机を並べ、少しでも社員の思いを吸い取ろうとした。よどむことを嫌い、スピードを求めた。そして重圧も当然あった。「それは眠れないこともあるよ。人間だもの。だからといって逃げていたら、負けだろう」と側近に漏らしたりもした。

 2月27日、金曜日。野崎さんは朝から忙しかった。自ら社長を務める関連会社・協和マイクロの浪江地区OAフェアに顔を出し、寸断なく仕事をこなした。たまたま経済紙の取材があり、会社の現状を語った。すると、その記者がその内容を聞き、「業績が持ち直しているなら、地元紙にきちんと説明したらどうですか。このままでは風評が一人歩きしてしまいますよ」とアドバイスした。すぐ、地元2紙に来てもらい、現状を語った。その時は「グループ全体で手持ち資金が増えている。3月期決算では当初計画を達成できそうだ」と語っている。その後、夕方から組合との労使協議会、新年会、さらに副理事長を務める平青年会議所の勉強会に出席し、仲間たちとで飲みに行った。帰宅は日付が変わった午後1時ごろ。さほど酒を飲まない野崎さんにとっては、遅い帰宅だった。そして、午前6時、トイレの前に倒れている変わり果 てた姿が家人に発見された。すでに息はなく、検死の結果、急性心筋梗塞と診断された。昨年9月に一粒種の長女・千聖(ちさと)ちゃんが生まれたばかりだった。

 親しい人たちは「まだ37歳。長所も欠点も併せ持つ発展途上。若くしてあまりに重い責任を背負わされていた。しかし、それと立ち向かい、自分の言葉で語っていた。会社のことだけではなく、青年会議所やまちの先行きを考えていた。良いリーダーになれたはずだった。会社の改革は道半ばで、まだ3分の1ぐらい、と話していた。ただ、メドがついたので青年会議所活動に力を入れていきたい、と言っていた矢先だった」と話す。




日々の新聞風の通 る家いわきクロニクルオンブズマン情報
編集後記田人お伽草紙草野天平の頁日比野克彦のページ
フラガールオリジナルショップ定期購読リンク集

 
ホームへ画面上へ