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いわきの駅を思う時、オレンジジュースが頭に浮かぶ。小さな子どものころ、祖父母のいるいわきに電車で来て、平駅(現いわき駅)の改札に下りる階段からオレンジジュースが見えた。当時、いろんな場所にあった、噴水式にジュースがたまるようなしかけで、食い意地が張っているせいか、セピア色の風景であのオレンジ色がひときわ鮮やかに記憶に残っている。
そのころ、人々の意識の中で駅、そして駅前はまだ、まちの中心だった。まちはそこから始まっていた。しかしいつしか、中心の意識は消え、通りぬけるだけの、めったに立ち寄らない場所になった。構造上はまちの中心でも、形態が崩れ、吸引力を失い、まちの始まりの楽しさは感じられない。
存在感を失っている駅前の救世主として、いま、再開発の計画が進められている。いわきの玄関の顔をつくるという30年来の構想で、高いビルを建てて、ペデストリアンデッキで駅とつなげる。規模は違うけれど、仙台や水戸など、だいぶ前からほかのまちでされている、もう使い古された手法だ。
明るくて、近代的な感じはするが、降り立ってもその風景はどこも同じで、無表情だ。その土地を訪れた人にとっては異空間で、肌ざわりが違うはずなのに、だ。無機質な駅舎、バスとタクシーの乗り降り場になっている広場とはいえない駅前広場。画一化されていて、まったく風情も面白みもない。
そもそも駅前広場は、車を寄せるための場ではない。人が集い、まちのエネルギーがうまれる場だ。まず、中途半端じゃない本物の広場をつくればいい。大きな木と階段式のアリーナがあれば、まもなく若者が弾き語りを、お年寄りがハモニカを吹き始める。大きな木は冬、だれもが見たくなるツリーに変身するかもしれない。
かつて平は城下町だった。まちのつくりはいまも、面影をとどめている。その雰囲気をあえて壊すことはない。駅を降り立った時、人々の心意気、歴史や文化が感じられればいい。
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