GIFアニメ 日々の新聞
CONTENTS
日々の新聞
風の通る家
いわきクロニクル
オンブズマン
編集後記
招待席

田人お伽草紙
草野天平の頁
HIBINO IN IWAKI
時のゆくえ
仲間たちの野辺送り
蔡國強といわきの物語
DUO
オリジナルショップ
定期購読
リンク集
 

 試合後、助川さんは必ず煙草に火をつける。負けてしまったらあとがない一本勝負。しかし、試合の流れの中で、「ここが勝負どころ」と考えても、実際にプレーをするのは選手たちだ。必ずしもうまくいくとは限らない。そうした、さまざまなものを含んだうえではっきりと勝ちと負けができる勝負の世界。試合後の煙草は、そうしたものを整理するうえで重要なのだろう。試合が終わったあと、助川さんは「煙草一本吸うから待っててくれっか」という言葉とともに、感慨深く煙草を吸う。それは儀式のようなものだ。

 小名浜生まれ。幼いころ父を亡くし、女手で育った。末っ子の長男で、家族の中で男は1人。しかも家の周りは歓楽街で、気の荒い漁師たちが酒を飲んでは喧嘩に明け暮れるようなところだった。そうした環境で野球と出会い、「母を守る」という思いを心に秘めて成長した。以前、「野球やってなかったら、どうなってたか。これも人生だなぁ」と話していたことがあったが、それだけ野球に対する思いは強い。
 小名浜二中から磐城高校に進学し、野球部に入った。当時の監督は、常磐炭砿から派遣され、磐城高校野球部の基礎を築いた石川成男さんで、勝つためのきめ細かな野球を教わる。ポジションはキャッチャー。福島県選抜チームの一員に選ばれ、ハワイ選抜との試合に出場した。当時を知る須永憲史さんは「親分肌。自分が納得しないと言うことを聞かないところがあった。そしてやんちゃだった」と振り返る。
 大学は順天堂大に決めた。当時の部長だった御代田公男さんに相談し、家の負担が少なく高校野球の指導者になるためにはどうしたらいいか、を考えて選んだのだった。順大では2年間にわたってプレーイング監督を務めた。そこで、さまざまな環境や条件での監督を経験し、野球を教え、ともに成長する喜びを知る。指導者になるために、あえて選んだ順大だったが、その後の生き方に大きな指針を与える4年間になった。
 最初の赴任地は、母校・磐城高校。吉田誠吉監督の下で助監督を務める。その年、相原登司輔さん(元勿来工監督。双葉監督として甲子園出場)が3年生だった。相原さんは投手で、良いところを持ちながら思うような結果を出せなかった。助川さんは、つきっきりで相原さんを指導し、一本立ちさせる。その夏、相原さんが記録した46イニング連続無失点は、いまでも、福島商・三浦広之投手(のちに阪急ブレーブス)の55イニングに次いで歴代2位。この中には、東北大会準決勝で仙台商と延長十五回の死闘を演じ、得点を許さなかった試合も含まれている。
 翌年、須賀川に転勤。ここでは「おめえら、野球わかってやってんのが」とやじられるほどのチームを3年間で県を制覇するチームに育て上げる。そして昭和45年、須賀川は磐城とともに県代表となり、ともに宮城代表を打ち破り、決勝で相まみえた。しかし、勝利の女神は微笑まず、0-3。甲子園を目前にして、出場切符がするりと逃げた。
 その後、平商、湯本、平商、いわき総合(内郷時代も含む)と勤務して、昨年、総合コーチとして湯本に戻り、今年の春から監督になった。
 試合後のインタビュー。洒脱な会話でなかなか本心を明かしてくれない。そんななか「経験してないのは甲子園だけなんだ」と言った。夏の大会に限って言うと、須賀川時代に東北(宮城と福島による代表決定戦)準優勝、湯本では、実質的に育てたチームが一回決勝に進出し、準決勝進出は、総合コーチとしての昨年、さらに今回も含めて4回。このほか、夏以外の県制覇、東北大会出場は数え切れない。しかし何よりも評価できるのは、野球の下地がほとんどなくなってしまったチームの土を耕し、種をまいて、芽を出させ、一緒に野球のすばらしさを味わいながら、勝つ喜びを共有する、ということを自らの人生の根幹に置いている、ということだろうか。
 「いつでも、どんな状況に置かれたとしても、選手を差別することなく、一緒に夢をめざす。一生懸命、真摯に野球と取り組んでいれば野球は裏切らない。何ごとにも心を込めれば、ボールにも伝わる。白球有情だ」。助川さんが40年にわたって高校野球と向き合い、指導者として選手たちと一緒に汗を流してきた末にたどりついた、ある境地なのだろう。




日々の新聞風の通 る家いわきクロニクルオンブズマン情報
編集後記田人お伽草紙草野天平の頁日比野克彦のページ
フラガールオリジナルショップ定期購読リンク集


 
ホームへ
画面上へ