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本丸があった物見ヶ岡。その面影はなく、南側からは平のまちが一望に見渡せる |
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| 普段、ほとんど意識することはないが、かつて平は城下町だった。鳥居忠政によって造られた磐城平城は、それまでの飯野平城(大館城)を中心とした町を再編成させ、近世的な城下町に変えたという。戊辰戦争で城は落城し、城跡地は民間に切り売りされ、いまはその姿を想像するしかない。しかしお城山をゆっくり歩くと、記憶の断片を辿るようそこに城があった名残にふれ、古への想像力は増す。磐城平城はまちづくりの「温故知新」かもしれない。 |

市文化財保護審議会委員の佐藤孝徳さんによると、その歴史はこうだ。
関ヶ原の戦いで徳川家康に協力しなかったために岩城貞隆が去って、1602年、鳥居忠政が飯野平城に入った。忠政の父・元忠は関ヶ原の前哨戦の伏見城の戦いで劇的な討ち死にをし、それが関ヶ原の勝利につながり、功績を認められてのことだ。
入部の際、家康は磐城には館はあっても城はなく、適地を見つけて城を築くように命じたという。忠政は飯野平城の東方の岩石段丘に、1603年から12年かけて磐城平城を造った。お城山にはそれまで武士と町人の住居、寺院が混在していたが、築城によって武士町と町人町、寺町にそれぞれわけられた。
本町通りができたのもこのころで、湿地帯を埋め立てて造られた。そのため、お城山の水と比べて本町通
りの井戸水は渋く、メタンガスも発生した。
城跡巡り
平一小から福島地方裁判所いわき支部(安藤家時代には藩校だった)の前を通り十字路を右折すると、高麗橋(通称・幽霊橋)がある。橋の下を通る国道399号線は外堀だった。高麗橋は399号線を造る際に設けられ、当時は八幡小路側と六間門側がちょうど江戸城の半蔵門のように続いていた。橋を渡ってすぐのクランクになっている辺りに六間門はあり、正門ではないが、殿様が江戸から戻って来る時には“やっとこ坂”を上ってこの門から城内に入ったという。
正門の追手門は八幡印刷所そばの坂を上り切って右折した辺り。道を進み中門があった手前を左折して木製の階段を下りていくと、内堀だった丹後沢に出る。自然の沼を拡張した丹後沢の堀は雨が降るたびに決壊し、そのため丹後というおじいさんが人柱となり、以後、決壊しなくなったという伝説がある。
再び中門跡に戻り、龍ヶ城美術館のわきから平安荘の方に下がって行くと、塗師櫓石垣がある。北から入る櫛形門に付いた北東角に築かれた石垣で、ありし日を忍ばせる一番の語り部だ。好間などの自然石を穴太積みし、ぼくとつとしているけれど崩れない。そこからまた龍ヶ城美術館に引き返すと、本丸のあった物見ヶ岡。本丸に天守閣はなく、南隅に高さ四丈三尺の二階造りの三階櫓があった。
会津といわき
戊辰戦争で西軍の総攻撃を受け、磐城平城は落城した。藩兵は自ら本丸に火を放して逃げたという。明治5年、磐前県は城跡地を民間に払い下げ、細かく切り売りした。会津の鶴が城も同じ運命をたどったが、七十七銀行を創立した遠藤敬祉(旧藩士)が切り売りされた土地を買い戻して松平家に献上し、復元されて現在に至っている。物見ヶ岡には天守閣を造ろうとして挫折した鉄筋コンクリートの基礎がそのままになっている。
いわきに住む多くの人は、お城山に磐城平城があったことを知っている。平城に興味を持っている人も少なくないが、詳しく知る人はあまりいない。そのため意識から薄れ、存在したことを示す数少ない断片も徐々に壊されている。いまさら、復元を望んでいるのではない。みんな、お城山を歩いて物見ヶ岡に立ち、数百年前の人々やまちを思いたいのだ。それは持って行き場をなくしている平のまちを考えることでもある。
「築城400年でお祭り騒ぎをしているが、築城はいわきの者にとっては屈辱的なこと」と、孝徳さんは言う。築城400年。存在感を失っている磐城平城とかつての城下町がアピールしているように思えてならない。
■そのほか お城山案内 胡麻沢の長源寺には鳥居忠政の父・元忠とその夫人、六代後の忠英の墓がある。遺言によって忠英の墓を造立した際、元忠の墓も改修した。本堂には元忠を描いた絵(写
真)も飾ってある▼磐城桜が丘高校は安藤家の庭園「万華園」だった場所で、校庭には文芸研究家・猪苗代兼如が住んでいた建物があり、立派なしだれ桜の巨木があった▼磐城桜が丘わきから梅香町方面
に下りると、鈴木幸彦さん宅の裏に滝ノ坊がある。昔、お姫様の化粧水に使ったとされる湧水で、お茶を点てる人などがもらいに来る。
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