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 高村光太郎・智恵子展が7月5日から草野心平記念文学館で開かれている。9月7日まで。会場には光太郎のブロンズ像や自筆原稿、さらに智恵子の紙絵などが展示され、見どころの多い展覧会になっている。光太郎の甥でカメラマンの高村規さん(70)に光太郎の思い出などについて話を伺った。


プロフィール
たかむら・ただし 光太郎の弟・豊周の長男。カメラマン。祖父・光雲、伯父・光太郎作品の写真撮影や鑑定などで知られている。1933年生まれ、70歳。東京都文京区在住。
 規さんの父・豊周は光太郎の弟で、近代彫刻の祖、ともいえる高村光雲の3男。工芸家で歌人だった。長男は光太郎なのだが、結局高村家は、豊周が継ぐことになる。高村家と親交が深かった草野心平は、その著書の中でこう書いている。
 「考えてみれば光太郎も、次兄の道利は無論のこと、性格的にも運命的にも高村家の大黒柱になれない兄達であった。そして光雲につづく高村家の、名実共に中心になったのは豊周である」
 規さんは、そうした高村家の中心にいながら、祖父・光雲、伯父・光太郎、父・豊周などの暮らしぶりを見てきた。
 光太郎の家兼アトリエは、高村家のすぐ近くにあり、高村家御用達の大工さんがつくった。瓦屋根だけが急勾配の変わった建物で、なぜか壁面が真っ黒に塗られていた。子どものころ、仲間たちは「お化け屋敷」として怖がったが、規さんは「自分の伯父さんの家」とは言わずに、知らんぷりをしていた。
 智恵子が亡くなったのは、昭和13年で、規さんが5歳の時。光太郎が智恵子を抱きかかえてアトリエに戻ってきたのをはっきりと覚えている。智恵子の肌は透き通るように白かった。規さんが智恵子を見たのは、それが最初で最後だった。
 光雲はよく散歩をして、光太郎の家に寄った。光太郎の家計が苦しいのを知っていて、自分の彫刻の下ごしらえをさせたり、自分の作品に光太郎のものを抱き合わせて売ったりしていた。
 一方の光太郎は、と言えば、そんなふうだから、本当に金に困るというようなことはなかった。若いころに留学していたパリでも、いい住宅街に住み、決してバイトに明け暮れるようなことはしなかった。「せっかくヨーロッパで暮らしているのだから」と言い、どんなに生活が苦しくとも、西洋文化の吸収を怠るようなことはしなかった。それは、高いロダンの本を買って、水ばかり飲んで一週間暮らすような、そんな生活ぶりだった。

ぜいたく好み

 「ぜいたくな人だった」と規さんは言う。アトリエで着る作業着はきちんと寸法を測ってロンドンから取り寄せ、客にはジョニ黒を振る舞った。「これどうしたんですか?」と尋ねると「人間には秘密の1つや2つぐらいあるんだよ」と答えた。行きつけの高級な飲み屋さんでは、自分が座るべき席が決まっていた。そこに先客がいると、店に入らず一回りして席が空くのを待った。そして常々、「中途半端なことをしてはいけない。じっと我慢するときは我慢して最高級のことをしろ」と教えた。若いころから丸ぽちゃタイプの女性が好みで、智恵子はまさにそのタイプだった。昭和10年ごろ、すでに16ミリの映写 機を持っており、光雲や智恵子を映していた。仕事をしているところを見せるのが嫌いで、作品にはいつも布が被せてあった。戦争が激しくなり、「作品を蔵に入れたら」と勧められたが、「そばに置きたい」と言ってきかなかつた。結局、智恵子を撮影した16ミリフイルムも当時の作品も戦災で燃えた。空襲で避難するとき、光太郎が持ち出したのは、光雲からもらった彫刻刀と砥石、そして智恵子の紙絵だった。
  光太郎は戦後、岩手県の花巻郊外に小さな小屋を建て、そこで暮らした。60歳を過ぎてからの、初めての農耕自炊生活。そして肺を患い、最後は東京のアトリエで息を引き取った。昭和31年4月2日午前3時45分、享年74歳。外では、春のなごり雪が激しく降っていた。
 規さんは、ある冬、雑誌の撮影のため、光太郎が晩年を過ごした高村山荘を訪ねた。雪が腰のあたりまで積もっていた。それをかき分けて小屋へ着き、板の間に足を踏み入れると、足の裏が痛くて我慢できなかった。氷点下17度。そのとき、伯父の凄絶な暮らしを実感した。



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