 |
|
 |
 |
|
|
昼飯である。
きょうの昼飯は冷し中華である。当然、マヨネーズをたっぷりかけて食べるのであるが、そこに紅ショウガもたっぷりかける。こどもの頃はこの紅ショウガが大嫌いで、冷し中華も嫌いになった。たまに食べるカレーライスも、福神漬をたっぷりかける。こどもの頃は福神漬だけ避けて食べた。
この頃は肉を食べなくなった。
昨晩など湯豆腐である。豆腐を大雑把に切って鱈の切り身を入れた。こどもの頃など、この鱈の匂いが嫌いで箸もつけなかった。いまは大好物である。
昔の茶の間はいまよりもっと暗かった。当然、裸電球は揺れ、風が吹けば家は大仰に揺れたし、停電もした。そのうえ、鼠が突然、天井裏をものすごいスピードで駆けまわったりもした。
あの頃、卓上ガスレンジなどという気のきいたものはなかったから、母親が台所で湯豆腐の鍋を沸騰させ、食卓に持ってきた。
あーあ、また湯豆腐だと思ったものである。薄明りのなかで極端に鍋に目を近づけ、鱈をとりあげないようにと祈りつつ、鱈をとりあげてしまったときは大変である。一度箸をつけたものはもう鍋へは戻せない。これがわが家の躾であった。そのあと鱈がどうなったのか思いだせない。
年とともに変わるのは味覚だけであろうか。ぼく自身もすっかり変わってしまい、別
人になって日日生活しているのかもしれない。たまに本人に会ったとき間違って挨拶してしまうかもしれない。
こどもの頃に家でだされた湯豆腐のことで思いだしたことがあった。わが家では、湯豆腐の鍋の中心に寿司屋でだす大ぶりな茶碗を置き、そこに醤油をはり、鰹節と刻みネギを入れ、決まって茶碗の底に昆布を敷いていた。その醤油に豆腐をつけて食べるのである。
昨晩の湯豆腐に何かが足りないと思ったのだが、きっと昆布だと思う。厚手の茶碗のなかで醤油と鰹節とネギが解け合い、そこに暖まった昆布からの滋味が滲みでて、すべてが交じりあい一体となる。
確かに、ぼく自身も味覚も少しずつ変わっていくのであるが、ぼくのなかで変わらないでいるもの、実は湯豆腐のなかで次第に滲みでてくる昆布の旨みみたいなもの。
それだ、と思い始めていた。 |
|
| (詩人) |
|