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詩人 粥塚伯正



「平字二丁目37番地」



本籍地への巡礼
 五十年と少し、この街(平)の空気を吸ったり、吐いたり、生き続け、ずいぶんと来てしまったなとおもった。じぶんの聲が別 人のように聴こえるのも、まだ生まれてきたときの聲を蓄えているからだろう。田町の角や、白銀町の軒下に、擦りつけてきた身体が、誰になってしまったのか、わからなくなってしまうような私のなかで、五十年と少しまえ、始めて吸った空気や光りの粒粒がまだ肺のどこかで生き続けているうち、路地の裏手のほうへ連れていかれるようにして(私は、この街に《誰か》に連れてこられたのかも知れな い)、十月のある日、本籍・平字二町目三十七番地への歩行を開始する。遠巻きに、あくまでも遠巻きに、歩行を開始する。
 鷹匠町から、大工町の開かずの踏切をようやく渡り(待ち人の近道だった、陸橋も取り払われ)まっすぐ南へ二百米、右に折れ、左に折れ、閉じられたシャッターのまえで、荷 物を降ろすように立ちどまる。降ろされたシャッターを持ちあげれば「はいから亭」主人が迎えてくれるはずもないが、確かにこの閉じられたシャッターの向こうには、三十年まえの私が座っていて、麦酒に頬を薔薇色に染め、焼うどんだかを飲みこむようにしていたのだった。あれから酒精はすっかり身体の二階に住みこみ、暴れたり、宥めたり、忙しい日々を送っているようだった。気を取り戻さなければ罐麦酒を飲みはじめているところだが、中也の詩を「ラアラア」口ずさみながら、浮かんでは消える、きょうの詩の一行を壊したり、積みかさねたり、白銀町へと迷いこんでゆけるのも、足に覚えさせた地図があるからだ。少しゆけば路が眼を細めるほどの路地があるが、その細い路地のなかほどにあった「イルフ」の灯りは深夜でも視えないほどだったから、白昼の眼ではもう何処にもみつけることはできるはずもなく、あの店の奥でどんより降り積もっていた闇やら光やらと一緒に何処へいってしまったものか。
 みな不在なのだ。あれからー。
 雨が降りだしたようだ。路上を濡らし、私の歩行を濡らしはじめている。
 もう私の記憶のなかでしか生き続けない「はいから亭」や「イルフ」に見送られるように、白銀町から「富松のコロッケ」のまえを通り、田町へ下ってゆこう。
 田町へゆくには、三十米通りの〈川の流れ〉があるから、息をととのえ「今だ!」という瞬間を渡ってゆくのだ。
 だんだん路も細くなり、私の背丈も低くなっているのか、「東京堂」のコッペパン、「鳥留」の鶏の泣き聲、幼年期の幻灯が頭のなかで点滅しはじめている。この通 りを抜けると私の本籍が墓標のように立っているはずなのだが、遠巻きにあくまでも遠巻きにして、「白小路」へ歩をすすめてゆく。そう確かにこの場処には「ひかり座」があって、『黒いオルフェ』や『鉄道員』、『第三の男』に、こどもの私の眼はおおきく見開き、どしゃ降りのスクリーンに見入ったものだった。あるとき、二階の映写 室に忍びこんだことがあった。誰もいないそこには、〈ノーチラス号〉の船底の冷んやりした空気を震わせるように、カタカタと、ただフィルムが廻っていただけで、視てはいけないものを視てしまった私はその場を逃げさるようにして、また映画館の暗闇に戻っていった記憶がある。あのころからだなきっと、暗闇のなかにいると安堵するようになったのは。
 映画館の暗闇からそとの光に眼が慣れるまでの時間が流れていったようだ。雨は、しだいに激しく降りだし、路地のすみずみまでを洗い流してくれる。「かどや」「可楽知」「亀」「豊川」、懐かしい名前が瀧のように流れているこのあたりの細い路地なら、迷うことはない、紙芝居がきていた広場(私は、この場処で十年まえに「レノン」という飲み屋をや っていて、もしオノ・ヨーコが来たらどうしようなどと考えながら麦酒を喉に流しこんでいたのだった)は、飲み屋さんの看板がいっぱいで、そこをおおきく左に折れて、今も杵で餅をつく音が聴こえそうな「だんご屋」のまえを急ぎ足で通 り過ぎ、十歩くらい。息せききってー。ランドセルを放り投げるようにしてー
 「ただいまあ」
 本籍・平字二町目三十七番地。

 生まれた家は何処にもないが、この場処で生活していた日々は今も、不在ではないのだ。
 まっすぐ西へ伸びている、田町の細い路地の先には「梅の湯」の高い煙突があって、その向こうに夕陽が落ちていったものだが、まだ降りやまない雨のなかでは、それも視るこ とができない。




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