どうしているかな、と思った矢先のことだった。10年前にお正月用のナンテンの取材で初めて自宅を訪ねてから、師走になると不意に和田文夫さんを思い出していた。縁起物の紅白のナンテンのせいだけではない。必然的に日々のくらしを意識するからだった。
民俗学は身の回り、生活の実態を素材にする。基本は衣食住。昔、こういうことをやった、あった、だけを調べるのではない。事象がどのような環境で生まれ、時代とともにどう変わっているのか、その将来までも研究する。それは人間を、人間の歴史を知ることでもある。
和田さんは伯父の家で柳田國男の本と出合って、民俗学を知った。当時、民俗学という言葉はなかったが、紹介されていた正月や盆の行事がおもしろかった。平のマルトモホールで柳田と初めて民俗学談義をし、本格的にその世界に入った。
姿勢は一貫していた。理屈や知識だけの机上の論理ではなく、その場所に身を置いた体験、実践を重視した。「百科事典を暗記しているのが知識人なら、持っている力を第三者のために役立てるのが文化人」。柳田國男の言葉を忘れなかった。
リュックを背負って、各地を歩いた。その土地を肌で感じ、住んでいる人々と同じ目の高さで話をした。なじむまで何度も何度も足を運び、人々の心の世界まで入り込んだ。
数年前に足を悪くしてからは、外出することがめっきり少なくなった。朝はゆっくり起きて、新聞や本を読んで、暖かい日には庭先で草削(くさけず)りをして過ごしていた。このところは門口から外に出ることはほとんどなかった。
その日、和田さんは奥さんのヨシ子さん(80)とかかりつけの医者のところへ行くことになっていた。しかし、当日になって「行がね」と言い出し、夕方まで布団に寝ていた。夜は遅くまで、練炭ごたつのある居間で起きていた。
午前1時ごろ、ヨシ子さんはガシャという大きな音で目を覚ました。居間のふすまを開けると、白い煙がもうもうと立ち込めていた。赤い炎は天井に向かって凄まじく燃え、電話はすでに通
じなかった。
「私はもともと百姓だから、学問などといって学者になるつもりはない。ただ、地方にあって身辺の習俗など民俗学のなかで、それに携わるだれかの役に立つようにしてやろうとしてきただけ。しかし、これからの民俗学がどうなっていくのか。ちょっとわからなくなった」
ちょうど3年前、柳田國男の写真が飾られた居間で最後に会った時、そう話していた。
納屋には今、表面が真っ黒にこ げた蔵書が山積みされている。中を開くと、意外にも文字が読める。 生活人として等身大で民俗学と向き合い、民俗学を身近なものにした亡き主の遺言を精一杯伝えているように思えてならない。
 |
|
|
「これは、民俗学なんてのをやってるオレと同じバカなんだ」
先生は、いつも私をこう紹介した。若い女性を紹介するような言葉ではない。紹介された相手の方がびっくりする。しかし、方々で私は「バカ、バカ」と紹介され続けた。その度に、なんと心地よい響きだろうと思った。
東京での2年間は、偉大な業績のある教授たちと優秀な院生たちとに囲まれて、自分の無能さを隠すだけで精一杯だった。やがて「院生の研究姿勢には疑問がある。私には合わない」などと、負け犬の遠吠えを残して故郷に逃げ帰った。そんな時に先生が「なんだ、お前もバカか」と声をかけてきたのだった。その結果、バカは、あらためて民俗学をやり直せそうと思うことができた。
先生は、いわき市内のみならず、広く東北をフィールドとして日本民俗学界を率いてきた。さらに、福祉施設や学校、社会教育施設建設への尽力など、いわき市への貢献をみても大変な功績のある人物だ。私のようなペーペーの若輩には、近づき難い存在のはずだった。ところが先生は、自分のことも私のこともバカだと言って、笑う。バカ、バカと言われながら、私は先生の後について山を歩き、研究会に出席し、庶民の歴史を学ぶことの楽しさを、あらためてかみしめた。
民俗学とは、私たちの祖先が黙々と、しかし誠実に生きてきた歴史を明らかにし、そこからより幸せな未来を築くために始められた学問である。先生の師である柳田國男は、これを“経世済民の学”と呼んだ。地域社会に還元されない民俗学などありえない。先生の民俗学は、決してこのことから外れることがなかった。「何のために民俗学をやるのか」。バカも、バカなりに理解し始めていた矢先だった。
先生はバカには言っても無駄だと思ったのか、私には何も難しいことを言わなかった。ただ、常に私の前で民俗学を学んでいただけだった。それで十分だった。
社会的な地位が高い人、功績のある人、多くの人から頭を下げられる人はたくさんいる。しかし、誰からも笑顔で声を掛けられ、どんなささいな話題でも話がはずむという人は稀だ。先生は、多くの人から敬愛されていた。
仰げば尊し。野辺の送り、師走とは思えないとても穏やかで暖かな陽が差していた。
|