画・松本 令子
第212号(2012年1月15号)の「桜とツツジの夜の森」の筆者、気賀沢芙美子さんの名前を見て驚きました。知人である横浜在住の気賀沢さんの原稿が、日々の新聞に載っていたからです。 どのような関わり合いかはわかりませんが、日々の新聞の取材網はすごいなと思いました。反面 、納得もしました。夜の森の桜とツツジは、農村開拓の祖・半谷清寿の後進性東北を憂いた遠大な計画から始まり、地域住民に脈々と受け継がれ、桜の名所として、また東北の軽井沢と言われるようになった歴史があるからです。 3.11当時、私は富岡町の嘱託図書館長として役場職員と一緒に、町民の避難対応をしていました。しかし体調を崩してしまい、治療に専念するために郡山のビックパレットを離れました。 横浜に一時、避難している時に、体調を心配してくれた気賀沢さんに案内され、安曇野で静養して回復できました(顔面 神経痛,めまい、耳鳴りは大変でした)。 気賀沢さんの原稿では、夜の森の桜とツツジにまつわる時代背景が綴られています。半谷家の家族だからこそ知り得た、貴重な内容です。 私が桜とツツジに関わったきっかけは役場の商工観光係(昭和55年〜60年)からです。詳しく分からない所もありますが、半谷農荘は当時、夜の森ヘルスセンターとして営業していて、それから六芳苑、現在は富岡町健康増進センター「リフレ富岡」(休業中)と受け継がれています。 この間、JR常磐線夜ノ森駅は全国花いっぱい「花と緑の駅」コンクールで日本一に輝き、町内全戸に記念タオルが配布されました。報道番組「ニュースステーション」で、富岡二中前の八間道路の街路樹である桜並木が生中継され、撮影現場を初めて見て驚いたものです。 知人のまちづくりコンサルタント会社の社長には「いいまちだなあ。日本のビバリーヒルズだ、サンタモニカだ」と、よく言われました。夜の森公園の桜並木は昭和58年、福島県緑の文化財に登録され、2年後、県民投票を基にふくしま緑の百景にも選ばれました。 桜並木は街路樹なので、てんぐ巣病にかかりやすく、枯れ葉が庭先に散らばって車の出入りに困るなどの苦情もありました。桜を切って側溝を造る公共事業計画を、保存する立場から取り止めにしたこともあります。 3.11の前は、桜まつりに八間道路でヨサコイ踊り大会が盛大に開催され、町内外から大勢の団体が参加して、夜の森公園を中心に毎年10万人ほどが訪れていました。 町史によると「夜の森」の地名は、荒野だけと思っていた土地に突然降って湧いたような森を見つけ「一夜のうちに森が」と言ったので、そうなったと伝えられています。戊辰戦争の記録の中には「宵の森」とあって、宵は夜のことです。 3.11で富岡は全町避難を余儀なくされましたが、町民の心の拠りどころ、シンボルの桜並木は一人おいてきぼりで泣いています。9年我慢して耐え、今もじっと耐えています。 古きを守るも開発なり。柳宗悦の言葉です。
406号に、さまざまな間違いが見つかりました。ご指摘、アドバイスをいただいた読者の方々に感謝します。ありがとうございました。今後、十分に注意していきます。
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