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猪狩金司さん

写真 年の瀬になると思っても見なかった訃報が届く。年賀状の欠礼挨拶状だ。遺族が年賀状のファイルからでも住所を見つけたのだろうか。猪狩さんの死が1枚のハガキで知らされた。 猪狩さんは一水という雅号を持ち、自らを白髪詩人と称していた。青年時代に漢詩にふれ、その生涯を漢詩とともに歩んだ人だった。
 猪狩さんと出会ったのは、今から8年前の平成5年。JA高久で開かれた漢詩と書の展覧会を取材したのがきっかけだった。以来、おりを見て、訪ねるようになり、漢詩の話や猪狩さんの人生について伺うようになった。
 若いころ中国大陸へ渡り、中華航空で無線技師として働いた。少年時代に雑誌で読んだスウェーデンの探検家・ヘディンのシルクロード探検記に憧れ、海を渡ったのだった。内蒙古の包頭勤務時代には、休日にロバを使ってシルクロードの古都を旅して歩いた。戦時下だったが、シルクロードはゆったりとした時間を刻んでいた。ウイグル人たちの隊商がラクダに乗り、ゴビ砂漠を越えてやってきた。野菜や薬品を持って来て、お茶や綿、食料などを持って帰っていく。夕陽が沈む中、20〜30の隊列をつくって砂漠地帯に帰っていくキャラバン隊…。その光景はまさに「月の砂漠」そのものだった。
 しかし、終戦で日本への帰国を余儀なくされる。戦時下7年、戦後抑留生活4年。計11年の中国での生活だった。平下高久の実家に戻ってみると、兄が戦死してこの世の人ではなくなっていた。猪狩さんは家を継ぎ、農業に従事しながら、漢詩を詠んだ。独学で書の技術を高め、体は日本にあったが、思いは常に中央アジアの草原に飛んでいた。肺気腫という持病を持っているというのに、煙草を吸い、漢詩をつくる。その、日当たりのいい6畳間こそが、猪狩さんの小宇宙だった。
 2001年ごろから持病が悪化し始め、入退院を繰り返した。肺に穴があき、呼吸が苦しくなって救急車で運ばれる、そんなことが繰り返された。それでも、猪狩さんは自分の部屋に帰りたがった。煙草の匂いをかぎ、漢詩をつくる。それが猪狩さんの生きる糧といえた。
 2002年3月30日、土曜日だった。体の調子がおかしい。「かあちゃん、きょうは土曜日だがら救急車呼ぶしかねえがな。今度は元気で帰ってこれねえがもしんねぇな」といい、病院に運ばれた。ひっきりなしに痰が出た。機械で吸うのを嫌がり、自分で紙に吐いた。そんな状態が2日間続いた。そして、4月2日午後、空気を半紙にしてなにやら書き始めた。苦しい息の中から「紙ねえが」とつぶやいた。看護婦さんが持っていた紙とボールペンで、一字ずつ書き始めた。そこには乱れていながら「一筆は高詩の如く」と書かれていた。猪狩さんは、そのまま、眠るように息を引き取った。午後3時30分すぎだった。
 猪狩さんには数年前、辞世のつもりでつくった漢詩がある。それを印刷し、「葬式でこれを配るように」と言っていた。

 聊(いささか)古稀を迎えし旦暮の身

 憾(うらむ)らくは唐詩を好むも押韻の辛さを

 念佛不稱(となえず)西國の道

 私(しそかに)黄泉(よみ)に至って故人に問う

 その意味は「今日か明日かわからない身でありながらなんとか70歳を迎えた/日ごろ漢詩が好きでつくっているが厳しい押韻や平仄で悩んでしまう/今から仏の道を上るが、常にこのことが頭にあって念佛は称えない/1人こっそりと黄泉の国で先賢に尋ねてみよう」

 猪狩さんの生前の口癖は「持病があんのに、好きなごどやってここまで生きられだんだがら、悔いはねぇ。ただ、もう一回シルクロードに行ぎだがったなぁ」。幕末の志士・高杉晋作は「面 白きこともなき世を面白く…」と言ったところで息が絶え、下の句が永遠の謎となったが、猪狩さんは「一筆は高詩の如く」という、猪狩さんの理想とする生きざまを辞世として残した。




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