日々の新聞に刺激されて私も新聞社を作ることにした。その名は「明後日新聞社」(あさって新聞社)。しかしこの新聞社は新聞を発行する予定は今のところない。主な事業内容は文化事業局になる。つまり、明後日新聞社主催のサッカー大会とか、キャンプ、写
生大会とかを行っていく。新聞を出す前にまずは行動する。報道はそのあと、つまり明日はアクティブに、明後日にそれを報道する。間接的に紙面
で言語的に伝える前に直接的に身体に伝えるということである。「新聞はいつだすんですか?」の問い合わせには「明後日あたり」と明後日の方向を見て答えることを社訓とする。同時に「一昨日テレビ」(おとといテレビ)も立ち上げる。これは身体的な記憶を呼び起こすことを主な活動とする。この一昨日テレビ局は明後日新聞の主催の活動に参加すると自動的に参加者の中に開局される仕組みになっている。
「明日に向かって」とか「明日があるさ」とか「明日こそ」とか「明日という字は明るい日と書くのね」とか明日という言葉は希望という意味として日常多く使われるが、結構「明日」という意味の中には絶望的な悲壮感も含まれている。何故そうなのかといえば、今の次が明日ではちょっと余裕がなさ過ぎるからである。前にしか向けないその強迫観念が「明日」という言葉の中にある。日曜日が休みだけどなんか寂しい気がするのは、明日が月曜だからである。時は刻々と前に進む。「止まれ!」といっても止まってはくれない。アクセルを踏まなくても自分が乗っている車は前に一定の速度ですすんでいる。そんな時の流れの中で、ハンドルを操作しなくてはならない。バックミラーを見る余裕もなく、今までの経路を思い出す暇もなかったら、なんとなくある一本道を淡々と過ごすしかなくなってしまうだろう。今、自分はどこにいるのかを知るには、後ろを振り帰るに充分な時間が自分の前にないといけないのである。
文字は新聞の武器である。映像はテレビの武器である。文字は事実を定着させてくれる。映像は事実を素早く知らせてくれる。この一般
的な役割を逆転させてみたらどうなるのか?そのあたりが「明後日新聞」と「一昨日テレビ」の目標でもある。「そんな明後日の方向見てるやつは一昨日来やがれ!」
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