明後日新聞社という新聞社が新潟にある。そこの社員たちが今回の地震で被害に会った人達を訪ねて11月3日4日にスケッチブックや色鉛筆、クレヨンなどを配っていた。社員たちは水色に黄色い胸ポケットのあるユニフォームを着ていた。手には画材を抱え、崩れた家がまだ残る町の中を歩いていた。 震度7の地震があった川口町では川原の自衛隊が建てたテントに暮らしている子供達に会った。画材をわたすと「もらっていいの?」「ありがとう」と素直に受けとっていた。一緒にお絵書きをしようとしたのだがテントの中以外に場所がない。しかたなくしばらく子供達と立っておしゃべりをしていた。一人の子どもが言った「自衛隊の人達はでっかくて強そうだけど、親分はちっこい!」みんなで笑った。丁度そのときに防衛庁長官がここに来ていたのだった。
川口の町で一人の子どもと会い画材を手渡して、他にお友達は何処にいるのか?と訪ねると、もっと先に行くといると言うので、辻を曲って進んでみるとそこには崩れた町並みが出現した。道は裂けて、めくれ上がり、家屋は爆破されたように砕けている。そんな中を水色のユニフォームを着た人達が歩いていた。子どもの姿はそこにはなかった。
ワゴン車は約500人分の画材で満載になっていた。十日町と小千谷をつなぐ国道117号を明後日新聞社の車は走っていた。信濃川沿いの車線は川に崩れ落ち、山側の車線は土砂崩れがあり、という箇所が何ケ所もあった。砂利で埋めた仮設道路を片側通
行での走行になっていた。時折降ってくる雨は、その一滴で山が崩れるかも、川に崩れるかも、という状態にさえ見えた。
避難所から避難所へ地元の人から情報をもらい、山の中の細いくねくね道を子供達の姿を追い掛けて車は巡った。
二日間で小千谷市総合体育館、その地区の信濃川沿いにある岩沢、川井、塩殿小学校、地域福祉センターみなみ、十日町市内の公民館、十日町小学校、クロス10、そして川口町を回り、車の荷台は空っぽになった。
次の日に川口町の河川敷のテントに避難命令が出た。テレビであの子どもの姿が映っていた。
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