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穏やかな立春 入院中の父を外に連れ出した
父は今年で85歳。昭和5年生まれ。今は入院している。先日岐阜に帰った折、見舞いに行った。その日は立春にふさわしい穏やかな日だった。病室で天気の話をする。その流れで「外に散歩にでも行く?」と聞いたら、意外にも「行ってみるか」と返事が返ってきた。
実はこの2カ月くらいは外には出ていない。冬の寒い時期でもあり、父の体調も優れない日々が続いていたから、私たちの中でも外に父を連れて行くという発想もしばらく忘れていたし、父もそんな気分ではないだろうと思っていた。このお正月も楽しみにしていた親戚
の集まりにも出られず、病室でお屠蘇(とそ)の真似事で、家族も正月気分をごまかしていた。
しかし立春のこの日は、表に出たくなる程に元気になっている。まさに暦の文字通
り、冬を乗り越えて春が近づいてきた。看護婦さんの許可ももらって、いざ外へ。急な展開だったので、父の外出用の服は持ってきておらず、私と妹の上着とひざかけなどで父を包みこんで、車椅子に乗せる。お気に入りの帽子も久しぶりにかぶった。
病室から廊下に行き、エレベーターに乗る。エレベーターの奥の壁に大きな鏡があり、父は久しぶりに自分の全身の姿顔と御対面
。3階から1階への移動の間、父は自分を見つめていた。ドアが開き、後ろ向きで車椅子がエレベーターから出る。廊下をしばらく行くと、病院の中庭に出る通
用口があり、そこから久しぶりの空の下へ。花壇があり、木々の葉が色づいている。まわりの風景が流れていくことを楽しんでいるだろうと勝手に想像し、なるべく陽が当たっている場所を選んだコースどりをしながら車椅子を押す。同じコースを2周して、陽だまりで小休止。すると父が「1、2、3、4、5、6、7階建てか、立派な病院やな」と言った。こんな父を見るのも久しぶりだった。
病室では問いかければ答える時もあれば、答えない時もあり、まして自分から話題を転換することもほぼなかった。妹が「ちょっと早いけどバレンタインのチョコ」と父の口元にもっていくと、パクリと食べようとした。嚥下の調子が一時悪かったので、あまり固形物はうまくはないのだが、「チョコきんとん」という妹のプレゼントはソフトなもので父も上手に飲み込むことができた。「今日は風もなくて、おだやかな日やな」と父が言う。そう言いながら自分の手で、帽子をかぶり直した。「えー! 自分でできるやん」と私が驚く。ならばとゼリー状のチュウチュウ吸える飲みものを父の手に持たせると、その吸い口を自分の口まで運び、容器を握って中身を押し出しながら上手に飲み始めた。「できるやん」と再び言うと。「そうやな」と父は答えた。春が体に効いたみたいだ。「春よ来い」。
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